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ベルリン・シャウビューネ『民衆の敵 An Enemy of the People』

 

 イプセンのテクストを用いて「経済」があらゆるものを押し流すという現代の状況にアプローチすること。ふじのくに せかい演劇祭2018の公式プログラムとして上演されたベルリン・シャウビューネ劇場『民衆の敵』は、そうしたねらいをもつ作品だった。もちろん、ストリートアートを彷彿とさせるセノグラフィーやロック・ミュージックの音響効果などを背景に、カジュアルで細やかな俳優の演技によって原作のドラマを丹念に立ち上げていくこの舞台は、中心的な上演意図に定位するだけでは語り尽くし難い幅をもっている。ともあれ、多彩な舞台の構成要素やそれらのアンサンブルが、多くの観客を融和的に引き込みうる充実を見せていたことを前提とした上で、ここでは演出・脚色のポイント、つまりトーマス・オスターマイアーが演出ノート(当日パンフレット「劇場文化」掲載)のなかで、この作品の要所であると示唆している場面の周辺に留まることにしたい。


 オスターマイアーが「私たちの翻案では、一カ所だけ、イプセンのテクストをより先鋭的なものにした箇所がある」と記しているのは原作の第四幕にあたる部分。とある海岸の田舎町に持ち上がった環境汚染をめぐって、公害告発の意志を貫こうとする医師・ストックマンと、町の経済を守ろうとする市議(原作では市長)やマスコミとの対立がピークに達する演説集会の場面である。ストックマンの演説が高潮するあたりでは、イプセンのことばに、フランスの匿名思想集団が2007年に発行したラディカルな資本主義体制批判のマニフェスト(不可視委員会『来たるべき蜂起(L' Insurrection qui vient)』)の一部が混入する。やがて観客席に照明が入り、観客は集会参加者として目前で繰り広げられてきた出来事について意見を述べるように要請される。それまでオーソドックスなリアリズム劇上演のあり方と地続きのところに作品の基調が求められてきただけに、この脚色上の処理と「観客参加」の演出は、ある程度まで鮮明な転調をもたらした、とひとまずはいえるだろう。


 引用テクストの導入の点でいえば、開演前と幕間に下りる紗のスクリーンに映る字幕というかたちで、すでに観客はそれに接する機会を与えられている。上演で提示されたメッセージは『来たるべき蜂起』の文言に若干手を入れたものであるらしいが、同書の「経済が危機にあるのではなく、経済そのものが危機である」という認識におよそつりあうものだった。その意味では、演説集会においてストックマンが露わにする社会に対する激しい憤りが、ストーリーに含まれる経済の危機(公害告発によりもたらされる町の財政の破綻)とともに、二〇世紀後半以降の西洋型社会の変貌、つまり「大きな物語」を背負った「政治」に代わり世界を動かす「経済」への直面という危機を背景とすることは、くりかえし予告されていることになる。だが、こうした多義性を帯びた〈経済の危機〉やそこに生じる軋轢は、理路や図式を超えた上演体験の実質として、どれほど観客に働きかけたのだろうか。オスターマイアーは「演劇は私たちの確信を揺さぶり、私たちの信念を挑発するものにもなりうる」と記している。そのとおりだと思う。ただし、はじめに少し触れかけたように、舞台のアンサンブルと観客の視線の距離との快い調和関係に満ちたこの作品の場合、観客がその安定性に半ばつなぎとめられながら、揺さぶられ、挑発されるというのが実際だったように思われる。


 もちろん「観客参加」に及んで作品の受容環境は変わった。プリセットのきかない観客を取り込みながら展開されるその場面に、上演の基調とは相容れない声が響くことも起こりえただろう(ちなみに、わたしが立ち会った「観客参加」の場面では、作品は公害を主題とするドラマとして受けとられ、「参加」した観客がそこへ人道的・教訓的な意見を寄せることがほとんどであり、もっぱら劇場の時間は「政治的な正しさ」の再認に費やされたのであるが……)。そもそもドラマの展開部分においても同化的な一体感の崩れる契機がなかったわけではないのだが、この作品がねらいとする対象は以上を考慮に入れても、なお補いきれない厄介な性質を帯びているのではないか。たとえば「経済」への順応によって、われわれが「数世代にわたって規律を叩き込まれ、骨抜きにされ挙句、当然のごとく生産的で消費することに喜びを覚える主体へと作り変えられてしまった」(『来たるべき蜂起』)とすれば、そして、そうしたはかり知れない対象を劇場体験として捉え返す作業が、なんらかのかたちでドラマへの順応なり、当然のごとくそれを消費することに喜びを覚える「主体」なりを問い直すことを要件としているとすれば――。


 このような疑問を抱えながら、観劇のあと、原作戯曲に目を通していると、上演ではカットされている台詞に目が留まった。そのいくつかは原作の第三幕にある、医師の娘で教師をしているペトラ(この人物は上演には出てこないが、その台詞の一部はストックマンの妻の台詞に統合されるかたちで生かされている)が新聞社から依頼をうけた小説の翻訳を辞退するというエピソードに関連している。たとえば、なぜ進歩的な紙面にそぐわない旧態依然の小説を読者に読ませようとするのか、というペトラの質問に対する、編集者・ホヴスタの次の答えなども、その一つである。「自由で進歩的な方面に読者を引っ張って行きたければ、読者をびくびくさせて、逃がすわけにいかんのですよ。ところが、こういう面白くて、危険性のないものが新聞の小説欄に載っていると、政治面の記事も、ずっと読者には受け入れやすくなるんでしてね、――安心感があるんですよ」。ここに大衆操作や政治と娯楽の二元論をめぐる風刺を読むことは簡単である。それに比べて、演劇という媒体が自己自身に差し戻されるものとしてこの台詞を担い、かつこれと自覚的な距離をとることは、それほど簡単ではない。台詞中の政治欄と小説欄、そして、現代社会の相のもとで原作を「先鋭的」に加工した場面とテクストを見事に「面白く」形象化したその他の場面の関係の並行性によって、改めてそうした実践上の困難のことが思われた(いうまでもなく紙面と舞台のあり方は同列に扱われるべきものではない。ここでは両者の違いを違いとして承知した上で、そこになおも認められる並行性を問題としている)。もっとも裏を返せば、オスターマイアーの演出が全体としてイプセン戯曲の風刺喜劇的な側面をあれほど巧みに活かしていなければ、上演では省かれている材料にちなむこうした考えや心情が浮かび上がることさえなかったのかもしれない。(2018年4月29日、静岡芸術劇場で観劇)

 


〔付記〕
本文中、関連テクストについては、原千代海訳「人民の敵」(『イプセン戯曲全集』第4巻、未来社、1989年)、不可視委員会『来たるべき蜂起』(彩流社、2010年)から引用させていただきました。

 

 

〔作品クレジット〕
ふじのくに せかい演劇祭2018 World Theatre Festival Shizuoka 2018
民衆の敵 An Enemy of the People』
日時:2018年4月29日-30日  場所:静岡芸術劇場
演出:トーマス・オスターマイアー 作:ヘンリック・イプセン
出演:クリストフ・ガヴェンダ コンラート・ジンガー エファ・メクバッハ レナート・シュッフ ダーヴィト・ルーラント モーリッツ・ゴットヴァルト トーマス・バーディンク
スタッフ: 舞台美術:ヤン・パッペルバウム 衣裳:ニナ・ヴェッツェル 音楽:マルテ・ベッケンバッハ ダニエル・フライターク ドラマトゥルク:フロリアン・ボルヒマイアー 照明:エーリッヒ・シュナイダー 壁画:カタリーナ・ツィームケ 製作:ベルリン・シャウビューネ