劇評 18/19+

劇評のブログです

akakilike『家族写真』

1 クラシックバレエと鏡

 

 アトリエ劇研で行われた初演の際の終演後、過去にakakilikeの作品にも出演したことのある、3歳からクラシックバレエを習っていたダンサーが、泣きながら倉田に話しかけていた。同じ劇研での上演では、泣くかわりに、具合の悪くなってしまった、4歳から18歳までバレエを続けていた小劇場の女優がいた。芸術センターでの再演は、本当にただの客として本番を見ただけなので、その終演後の雰囲気がどうであったかわからない。今回、制作として関わったd-倉庫での上演では、幼少からバレエをしていた、京都造形芸術大学舞台芸術学科にいる女子が、上演中の客席で、そして作品の感想を話しながら終演後にも泣いていた。泣けるから凄い、ということが言いたいわけではないのだけれど、この作品が、元バレリーナにとって、あまりにも重要な何かが演じられていることは、疑いようのないことだと思う。そもそも、最初っから遠回りするが、クラシックバレエを習うというのは、ある意味でトラウマを作ることである。大抵、彼女たちは幼い頃からダイエットを意識している。当時流行っていたテレビを見ていない。クラブ活動に参加したことがない。友達と放課後に遊んだことがない。多くの彼女たちの幼い思い出は、学校とバレエ教室と、その往復路の思い出なのだが、しかしそれ以上に、バレエ教室が持っている装置によって人は簡単に傷つくのだ。

 バレエ教室の壁は一面が鏡である。幼い頃からバレリーナは、その鏡の前で、バレエとしての美しい姿を維持出来るよう自分の身体を教室の先生に監視されている。もちろん、それが下手な動きであったりすれば、そうあるべき姿としての、正しい姿勢へと矯正されもするだろう。ただ、監視するのは先生だけではない。むしろ、幼いバレリーナを常に監視しているのは、鏡の中の自分を見つめる、他でもない自分自身のまなざしである。壁の一面に貼られた鏡に映った自分の姿を自分自身で監視しながら、指先から足先まで、美しく、正しい姿で立てているのかを、彼女たちは自らの目で見つめ続けている。私はちゃんと痩せていて、腕は綺麗に伸びていて、お尻は小さく上がっているか。無理な姿勢をしているあいだ、ちゃんと綺麗に笑えていて、その笑顔のまま姿勢正しく走ることができているか。とはいえ鏡に映る自分の姿はいつも美しいわけではない。というか、幼い彼女たちが見つめている鏡の中の自分の姿は、ほとんどが未熟な、まだ上手に踊れていない、拙い自分の愚鈍な姿である。それは理想の姿とは、いつもどこかが違っている。でも、だからこそ、鏡に映る自分の姿とは別の、もっと綺麗で理想的な、クラシックバレエとしてそうあるべき姿へ、もっと近づかなければならない。

 もっと綺麗に、もっと上手に、もっと美しく正しい姿が、この鏡に映らなければならない。もっと綺麗な姿があるのは知っている。教室にいるお姉さんや先生は、わたしと同じことをしていても、もっと綺麗に立ち、回る。でも、いま鏡に映っている自分の姿は、なんとも幼く、どうも不格好に見える。私は相対的にいつも劣っている。本当はもっと美しく足が上がらなければいけないのに、本当はもっと綺麗に跳ねなければならないのに、もっと可愛く笑いかけながら、細い腕を天に伸ばして、静かに止まっていなければならないのに、鏡に映る自分の姿は、いつも理想より少し悪い。もちろん、鏡を見ながら自己否定を繰り返すことは、わたしたちの日常においても、ありふれた、ありきたりな事である。わたしたちが鏡の中を覗きながら、もう少し目が大きかったらとか、もっと肌が白かったらとか、少し輪郭が細かったらとか、そんな事を一度や二度は誰しも考えるものだろう。ただ、日常であれば、目が小さくてもそれを喜ぶ人がいたり、丸い顔を愛でる人が現れることもあるのだが、クラシックバレエの形式の中では、ありのままの私がもっている、その細くない腕や上がらない足を認めてもらえたりはしない。クラシックバレエの「伝統」と、私の「ありのまま」の身体を比べ、その教室の中において優先されるべきなのは、当然、クラシックバレエの伝統なのである。いつだって、私の身体は、バレエの形に服従し、改造されなければならない。

  アメリカの精神科医によって書かれた『鏡の中の少女』という小説がある。主人公であるバレリーナの少女は、鏡に映る自分が、一流のバレリーナに比べてほんの少しだけ太っていることに気がつく。鏡は、「これこそが、いまのお前なのだ」と、太った自分が私であることを赤裸々に語りかける。そこで彼女は、そんな太った「鏡の中の少女」の姿を否定して、より理想の身体に近づくために、まずは食べることをやめ、食べたとしてもトイレで胃の中のものを吐き出してしまう。そして、雑誌の表紙を飾っている、モデルの写真を切り抜き、痩せている順番にその写真を並べてから、そのモデルたちより痩せることを目標として過度なダイエットを継続する。どんどん痩せていく彼女の姿にうろたえる家族は、食事を取るように彼女に語る。しかし彼女は、目の前の料理をスプーンで押し続け、ただ皿の上で引き伸ばすだけで、一向にそれを口に運ばない。

 鏡は、自分の姿を映すだけでなく、「これこそが、いまのお前なのだ」という現実を突きつけてくるものである。わたしたちは普段の生活で、当たり前のように鏡を覗くが、もしもバレリーナのようにして、鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめ、ここの部分はとても良い、でも、ここ部分はぜんぜん駄目、などという判断を、一日何時間もその前で続けなければならないのとしたら、鏡の前に立つのも段々嫌になるのではないか。しかしバレリーナたちは、それを幼い頃からずっと繰り返しているわけである。その精神科医によって書かれた小説と同じようにではなくても、鏡にうつる自分を見つめ続けることは、場合によってはそれくらい、深刻な自体を引き起こすのも仕方がないことだろう。

 

 この『家族写真』は、そんなバレリーナたちの傷や現実が、ダンスの中で抽象的に再現されていたのだと思う。例えば、初演の時はまだ9歳だった迫沼莉子が笑顔で踊る「雪のワルツ」を、舞台上にいる家族の皆が眺めるという一幕がある。バレリーナであれば一度は踊るであろう、「くるみ割り人形」における、そのひとつである「雪のワルツ」に合わせ、迫沼の可愛らしい笑顔が張り付いた踊りを、他の家族がじっと見つめている。家族がその迫沼を見ている光景は、一見して、幸せな家族の姿にも見えるかもしれない。しかし、幼い頃から鏡の中の自分をずっと見つめていた、かつての「鏡の中の少女」たちにとって、笑顔で可愛く踊ることを期待してくる家族の視線は、ただの家族の愛情を超え、過度な期待という重圧としての眼差しへと変わることもあるだろう。「私」を見つめるその視線は、「そうあるべき姿を見せろ」という脅迫として、さらに、その要求に応えざるを得ない強制力を発揮しながら、「私」を監視し続ける眼差しの監獄である。また、言うまでもないことでもあるが、クラシックバレエだけではなく、わたしたちのごく平凡な生活の中の実感として、家族という関係それ自体が、そもそも、監視の機能をあらかじめ備えている。

 別の一幕、食卓をイメージさせるテーブルを囲む家族がいる。その団欒の輪から少し離れて倉田が立っている。家族の皆がその机から離れる。倉田は歩き出し、机の上に仰向けで寝そべり、そこで口から血を吐く。そして、出演者の前谷が、その倉田にまたがり、その姿を写真に撮る。この、血を吐くというシーンが過激なのは、家族を扱った「ダンス」作品で、血を吐くという演出が採用されているからではない。また、そんな演出が珍しく、かつ奇抜なアイデアだから素晴らしいのでもない。このシーンは、いままさに血を吐いている彼女の姿を、家族の誰もが見逃しながら、前谷の構えるカメラだけがそれを見ているがゆえに素晴らしく残酷なのである。さっきまで迫沼のバレエを見ていた家族が、血を吐く倉田を見逃すのである。また、さらに言うならば、唯一その姿を見ているのは、前谷の目ですらない。それを見ているのは、いまの自分をそのままの姿で映しだしてしまう「カメラ」という道具である。「いま、その」瞬間を映し出す道具が「いま、その」倉田の事を見つめ、そこには、「いま」血を吐いている、「その」倉田の姿が映される。その意味で、カメラとは、鏡と同じように、「これこそが、いまのお前なのだ」ということを見せつけることが可能な、鏡に似た装置だとも言えるだろう。鏡にしても、写真にしても、そこに映っているのは「いま」の、「その」自分自身の姿である。この一場面の、救いようのない残酷さは、この二重の視線にある。そこで血を吐いているということが残酷なのではない。迫沼のバレエを見つめていた家族が、血を吐いている倉田のその姿だけは見逃しているということがまずは残酷であり、同時に、そんな倉田の姿を、私によって私を見ことを可能にする「カメラ」という道具に見られていることが、さらに残酷なのである。何が何を見て、何を見逃すか、それがここでは問題なのである。

 別の一幕。迫沼が踊っていて、家族のみんなそれを見ている。そのあいだ、血を吐いたあとの倉田が、他の家族から少し離れて、未来の兄であるかのような竹内と並んで立っている。客席に背を向けて立つ倉田の視線の先で、「雪のワルツ」を迫沼が踊っている。やがて、倉田は振り返り、観客席の全体を眺める。迫沼を見ている観客を、倉田が見つめ返している。そのように倉田が客席に向けて振り返るのは、この場面が三回目であり、最初に挙げた迫沼の「雪のワルツ」の場面でも、迫沼が踊っている最中に、倉田は観客の方をわずかな数秒だけ振り返って見つめている。そして、倉田はこのシーンの後、血のついたトウシューズで、アラベスクやアチチュードといったクラシックバレエの基礎的なポーズを取っては倒れるという振付を繰り返す。ただ、ここでも倉田の踊りを家族は見ていない。それだけならついさっきと変わらないのだが、ここでは倉田の踊っている位置と家族の場所が重要である。倉田が踊り始める場所は舞台下手の前方、そして他の家族がいる場所は机の上、これはつまり、迫沼が最初に「雪のワルツ」を踊り始めた時の位置と同じ位置の関係になっている。さっきと同じように踊りが始まり、さっきと同じように彼女が無視される、と、そんな「繰り返し」の構造が、ここでは二重に行われている。後に書くが、倉田の作品では多くの「繰り返し」が行われる。そしてその構造が変奏されながら上演される中で、彼女は再び、何度めかの形で、あらためて、同じように無視される。そこで倉田が、何度も繰り返し観客席を振り返る意味はなんだろうか。もちろんどのように意味をつけても良いのだが、この作品を「視線の欠如」として見た時に、倉田は、自分を見ている人物を探すために振り返っていたのかもしれない。

 

 鏡も写真も、理想とぜんぜん違う姿を、「これがお前だ」と突きつけてくる道具として、見たくもない現実をあらわにする装置にもなり得る。そう言えば、「演劇は世界の鏡」という世界劇場の思想があった。もちろん、クラシックバレエをした全ての人が傷ついているというわけでもないだろう。ただ、今作は「世界の鏡」として、「これこそが、お前なのだ」という重圧との戦いによってつけられた傷を映してしまうからこそ、かつてのバレリーナたちは、その家族と倉田の姿に、鏡を見るように、自分自身の傷を見つめていたのかもしれない。バレエに服従し、その形式へ自らを同化させるための過程には、血を吐くような気分を隠し、鏡に映る自分自身を否定するという作業が繰り返されることになる。その繰り返しの中で、「鏡の中の少女」たちが、傷つけられるのも当然の結果ではあると思う。

 

2 倉田翠の音楽性

 

 ただ、ここまで書いておいてアレだが、倉田翠の演出するダンス作品の魅力として語られるべきは、そういう「重いテーマ」への関心ではなく、その演出の音楽性、作品全体の時間の構成能力の高さであると思う。ポリフォニーリトルネロ、それぞれの音楽についての用語によって言い表すことも出来るであろうその音楽的な時間の演出は、今作の『家族写真』でも顕著に表されていたのだが、倉田作品の多くは、それがなんとなく音楽っぽい、という印象などの話ではなく、その構造がある音楽の形式に似ている。

 ポリフォニーとは、《複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する》ものだと説明されている。一方、リトルネロとは、ある小さなフレーズへと、その曲の中で何度も繰り返し立ち返るような形式の楽曲であり、《バロック時代の協奏曲に多く見られた形式で、リトルネッロと呼ばれる主題を何度も挟みながら進行する》のだとウィキペディアでは紹介されている。

 まず、倉田の作品におけるポリフォニー的な部分とは、出演者のそれぞれが、自分だけのタイムラインを維持し続ける演出にその特徴を見ることができる。それぞれにバラバラで、拡散し続ける時間や空間は、ある意味では散らかった、統一感のない作品の印象を生むこともあるだろう。しかしそれこそが、倉田の多くの作品において前提とされた時間の感覚である。全体が「ひとつ」の何かを目指し融合するような運動ではない。そうではなく、複数の異なる振付が、終始、互いに自立している。あるいは、前作の『捌く』は、「男性10人のソロダンス」として、まさにその独立したタイムラインという構造を全面に押し出した作品であったと言えるだろう。今作においてそれが顕著に現れていたのは、誰の相槌もないままひたすらに喋り続ける筒井や、上演中ただ写真を取り続けた前谷などの姿だろう。彼らは他人が何をしているか関係なく、自分が過ごすべき時間の中でその時間を全うする。

 そして、もう一つの音楽性がある。倉田の演出する多くの作品には、リトルネロ的な構造が見受けられる。リトルネロとは、「すでに過ぎた時間が、同じように、唐突に何度も繰り返される」という音楽の形式であり、進行していくメロディーの中で、すでに演奏されたフレーズが急に割り込んでくるような様式だと言える今作においてであれば、倉田が血を吐く場面、兄妹が横並びで立ち妹が兄の手を触る場面など、短いフレーズとしての断片的なシーンが、その作中で何度も繰り返されていた。「繰り返される同じフレーズ」として断片は、ついっさき見た、ある振付や、ある場面の、端的な繰り返しでしかない。しかし、直線的に進む時間の途中に、すでに見たはずの時間が不意に割り込んでくる。ある風景の中を歩く途中に、すでに通り過ぎたはずの風景が、デジャヴ、あるいは、フラッシュバックのように、唐突にその目の前に現れるようなものである。まっすぐ進んでいたはずの風景の中に、過去に見たはずの風景が、同じ形で、同じように再現され、そして何事も無かったかのように、それが消えたと思ったら、再び、さっき見たはずの風景が、不意打ちのように目の前に現れる。

 ポリフォニーリトルネロという二つの音楽的な構造がこの作品を支えている。多声音楽としての重層的なメロディーの中で、すでに歌われた短いフレーズが、リトルネロの形式のように何度も唐突に反復される、拡散と回帰の構造が、倉田翠の作品の、クラシカルな音楽性を下支えしているのである。というか、そんな「ダンス」としての強固な地盤がすでに形成されているからこそ、akakilikeは自由に出演者を変え、主題を変えながら、新たな挑戦を続けられるのかもしれない。そして、この『家族写真』が、どこから見ても傑作なのは、そのリトルネロ形式による倉田の演出が、そのまま、「外傷性記憶」や「フラッシュバック」の構造と、あまりにもよく似てしまったことも、その要因のひとつであると言えるだろう。もちろん、普通に見ていても面白い今作だが、一部で書いた「傷」を、このリトルネロの「回帰」という構造と共に考えると、この作品は、偶然にも、主題と形式がぴったりと共鳴していることに気がつく。

 

 わたしたちが「トラウマ」や「フラッシュバック」と呼んでいるものの状態について、中井久夫という精神科医は「記憶について」という文章の中で、外傷性記憶が《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》なのだと説明している。現在であれば、PTSD と呼び直されたりもするその症状であるが、つまりそれは、過ぎていく人生の中で、しかし変わることのない恐怖や後悔や悲しみなどとしての「不変の刻印」として、なにも変わらない形のまま、「永続する記憶」だと説明できる。フラッシュバックとは、その「不変の刻印」である過去が、いま流れている時間の中で、「すでに過ぎた時間が、同じように、唐突に何度も繰り返される」ようにして、思い出されてしまう状態であると言えるだろう。それはリトルネロとしての「不変の刻印」の「唐突な反復」なのだ。つまり、倉田の作品の反復は、「すでに過ぎた時間が、同じように、唐突に何度も繰り返される」という構造として、「トラウマ」と呼ばれる状態によく似てしまっている。その意味で、今作が扱う主題的なテーマと、倉田の採用する形式は、この『家族写真』においては、全く正しく合致しているのだと思う。

 

3  おわりに、

 

 倉田にとっての「過去」であるその「クラシックバレエ」という要素を扱った『家族写真』という作品は、倉田がバレエに向けて送った「お礼参り」のようなものだと私は思う。「感謝の気持ちを表す」こと、そして、「教師や先輩に仕返しをする」という報復の意味で使われるこの言葉であるが、この『家族写真』は、クラシックバレエへの「お礼参り」として、あるいはこれもヤンキー的だが、倉田がバレエに「ケジメ」をつけるような作品だったんじゃないだろうか。もちろん、ヤンキーが「あいつとケジメを付けなければ」とか言う時は、だいたい喧嘩をするという意味だ。

 クラシカルな音楽的感覚を、おそらくは意識しなくてもその演出に取り込んでしまえるほど、倉田の身体には「クラシックバレエ」的な素養が、《不変の刻印として永続する記憶》のように染み込んでいるのだと思う。そして、それこそが彼女の武器であり、なんとなくダンサー、みたいな踊り手とは比べようもない違いがその作品にも身体にも歴然と見ることができる。しかし同時に、それはいつまでも消えることのない傷でもあるのかもしれない。そのように踊っても、倉田はやっぱりダンサーなのであり、そのダンサーとしての自分からすでに逃れることが出来ない。そこで倉田が選ぶのは、真っ白のつま先に血のついたトウシューズを履き、伸びやかさとは無縁の姿で床に横たわることや、「雪のワルツ」を聞きながら痙攣を続ける振付である。「飛翔」と「回転」としてのクラシックバレエにあらがって、彼女は舞台で床に寝そべり、何度も壁により掛かりもした。クラシックとしては、そんなことしちゃ駄目じゃないか、という感じである。しかし、駄目なことを率先してやるのがヤンキーというものだろう。「受け入れるけどただじゃおかない」。お礼参りとはそんな態度で望まれるものである。

 

 

 

演出:倉田翠

出演:倉田翠 迫沼莉子 佐藤健大郎 竹内英明 筒井潤(dracom) 寺田みさこ 前谷開

スタッフ
akakilike

演出助手:平澤直幸 衣装:清川敦子(atm) 美術:木岡なつき 広報・宣伝美術:岡南杏奈 照明:魚森理恵(KEHAI works) 音響:甲田徹

———
舞台監督:大鹿展明 制作:長澤慶太


主催:akakilike