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藤田貴大『BOAT』

 

演目:東京芸術劇場BOAT』(作・演出:藤田貴大(マームとジプシー))

評価:★★★★★★★☆☆☆(7/10点満点)

 

「演劇」は「劇場」を爆破し/そして「歌」へと近づいていく

 

森山 直人

 

 どこか歌のような作品だ。もちろん、どういう意味で「歌」と考えるべきなのかは簡単ではない。たしかに、この作品でも、「リフレイン」や「編集」といった、マームとジプシーの代名詞ともいうべき手法が多用されている。だが、それ以上に、見終わった後に、たとえていえば、「歌い手」の存在が、その存在のシルエットだけが眼に焼きついて残った。――そんなタイプの舞台だった。

 

 『BOAT』は、三部作の最終作だという(Web等での藤田自身の発言)。『カタチノチガウ』(2015)、『sheep sleep sharp』(2017)の前2作を私は見逃しているので、本作を、三部作における位置づけのなかで分析することはできない。本作はまた、『小指の思い出』(2014)、『ロミオとジュリエット』(2016)につづいて、東京芸術劇場プレイハウスという〈大劇場〉での藤田演出の3作目となるのだが、あいにくこの2本も私は未見である。したがって、ここでの私の分析は、あくまでもそうした限定つきであることを、はじめにお断りしておく。

 

それでも、この作品が、日本の現代演劇のこれからを考える上で、一見の価値のあるものであったことだけは間違いない。

 

 舞台は架空の都市。多くの人々が、ボートでこの場所に流れ着き、生活している。宣伝文句には「寓話的」という文字が躍っていたが、白っぽい空間に「どこでもなさ」「いつでもなさ」がある抽象性をもって展開していくことで、全体としては一種のSF的な雰囲気もただよっている。劇場は、最初から最後まで、がらんどうのような大空間として使用されており、衝立てやボートの装置によって時間と空間が区切られ、シーンが成立していく。各シーンが、めまぐるしい速度で構築と解体を繰り返していくのは、いつもの藤田作品と同じである。

 

物語の後半、架空の街の上空が、突如謎の飛行物体で埋め尽くされる。人々はそれをボートと呼んで怖れ、街は混乱に陥る。やがて、「丘の上」に住み、他の街の人々から差別されていたグループが、追っ手を逃れるために街の劇場に爆弾を仕掛け、ボートで脱出を試みようとする。銃撃戦の末、〈街〉を脱出して〈難民〉たちが海上にでると、――ここからがラストシーンとなるのだが――大劇場の緞帳が降りてきて、それまで本舞台に見えていたすべての風景や装置が背後に消えてしまう。緞帳の前には、最後にエンドロールが投影される上方のスクリーンを除いて、船上の俳優たちだけとなる。そのなかのひとりである青柳いづみが、「目を開けたら、何が見えるだろう」という抒情的な台詞を繰り返し、やがて「・・・未来」という一言で劇は閉じられていく。

 

ところで、なぜ私は、この舞台に「歌い手」の存在のようなものを感じたのだろうか。もちろん、藤田作品にある程度親しんでいれば、ある種の俳優の身体性こそが、彼の芝居作りの重要な動機になっていることは理解できる。そのことについて、たとえば、作者は、最近の岩城京子のインタビューに答えて、次のようにいっている。

 

「まずひとつ言えるのは、僕のなかにもいくつか「止まっている時間」があるってこと。その時間は「異常な解像度の時間」と言い換えてもいいんですけど。その磁場みたいな時間に、僕はどうしても引っ張られてしまう。(中略)その恥と痛みにみちた解像度の高い時間を、誰かの口から発してもらいたい。人の肉を通して、再生したい」(岩城京子『日本演劇現在形』、一四○頁、傍点引用者)。

 

 ここで端的にいわれているように、「解像度の高い時間」が、「誰かの口」、すなわち具体的な俳優の身体から発せられることが、藤田の作品世界の真骨頂であって、事実、私たちは、彼の作品を通じて、そうした「言葉を発する行為そのものの生々しい具体性」というべきものを、これまでにも何度も感受してきた。そして、これまでの藤田作品の多くにおいては、そうした濃密な(作者がいうところの)「止まった時間」は、まさにリフレインという独特の手法を通して、強く印象づけられてきたのである。

 

ところが、『BOAT』の場合、そのことを強く感じさせたのは、リフレインよりも、むしろラストシーンの演出の仕方であった。

先述の通り、ラストシーンでは、それまで虚構を構築していたすべての装置が、降りてきた緞帳とともに消滅し、一台のボートの上の俳優たちだけが残される。いま思えば、緞帳が降り切った瞬間、私はそこに、これまでの藤田作品とは、少し違った印象を受けていたのかもしれない。別の言い方をすれば、まさにそのラストシーンにおいて、私には、それまで舞台上に流れてきた時間が、はっきり〈止まった〉ように感じられた。そしてさらにいえば、私はまさにそこに、「演劇」というよりは、むしろ「歌」に近い何かを感じたのである。大雑把なたとえでいえば、まるで、それまで徹底的につくりこまれ、演奏してきたバックバンドの音が突如ヘッドフォンの向こうから消え、ヴォーカルの声の響きだけが残されたときのような感覚に、『BOAT』のラストシーンはよく似ていたのである。

もちろん、ラストシーンを緞帳前だけで演じる舞台作品など、珍しくもない。しかし、私はそれまで、そうした手法の作品に、一度も「歌」など感じたことはなかった。

 

 差別された人々が、小舟に乗って海上へ脱出する。この設定に接するとき、日本の現代演劇のファンなら、すぐに野田秀樹の名作『赤鬼』を思い出すだろう。ところが、少なくとも私の印象では、野田の『赤鬼』がどうみても「演劇」にしかみえないのに対し、繰り返しになるが、藤田の『BOAT』は、ずっと「歌」に似ていたのである。

 

おそらくそれは、作品全体を構成する物語の質の違いと深い関係がある。誤解をおそれずにいえば、野田の『赤鬼』は、物語に「リアリティ」があるのに対し、藤田の『BOAT』の物語には、そういう意味での「リアリティ」がない。もっといえば、『BOAT』を構成する物語は、どこか歌うためにつくられた口実、というか、そういうタイプの歌詞にむしろ似ているのだ。ふつうは「演劇」にくらべて、はるかに時間的に限られているポピュラー音楽の「歌」の場合、そこで語られている虚構の世界を事細かに描写するよりも、より少ない言葉で世界の広がりを暗示することができるように言葉は選ばれる。『BOAT』の「どこでもなさ」「いつでもなさ」の抽象度に彩られた言葉は、むしろそういう質の言葉、そういう質の叙事性と抒情性に近いのではないか。

 

野田秀樹の「物語」(特にNODA MAP以降)は、作品によってその濃淡の違いはあるが、概して、その時々の観客が暮らしている「現実」をリファレンスにもっている。たとえば野田の『赤鬼』をみて、「帝国主義」や「差別」といった現実的な社会問題を喚起された人は多いし、野田が「演劇的」に見える理由はまさにそうした部分にあるのだ。野田の「物語」を作り上げている言葉は、私たちが生きている社会的現実のメタファーであり、現実を解釈するための「物語」として機能している。

 

いっぽう、『BOAT』には、まさにそういう要素が非常に希薄なのだ。その意味で、この作品は、ひめゆり部隊という「歴史的現実」にリファレンスをもつ『cocoon』とはまったく対照的である。たしかに藤田自身は、この作品の構想の出発点に、昨年話題になった北朝鮮からの漂流船の問題があったと語っている(★註1)。そして私自身も、『BOAT』を見ている間に、北朝鮮の漂流船や、いま世界中の海上の浪間に漕ぎ出している難民船のことを何度か思い浮かべたりはしたのだが、野田作品とは異なり、そうした社会問題のイメージと舞台上のイメージとが、どうもうまく結びつかないように思われてならなかった(★註2)。要するに、『BOAT』が舞台上に展開していく物語世界は、私たちの周囲にある「現実」にはあまり似ていない。おそらく、完全にではないが、意図的に、「現実世界」や「社会」から、一定以上切り離された表現に徹しているように見える。『cocoon』がまぎれもなく「演劇的」な演劇作品であったのに対し、『BOAT』は、そういう「演劇的」な地点から脱しようとしている作品のように思われてくる。

 

ラストシーンで、それまでのすべてを消滅させる緞帳は、クライマックスにおける屋台崩しと、ほぼ同じような「否定性」をもつ。それまで懸命に虚構に入り込み、意味を汲み取ろうとしてきたすべての装置は、すべては錯覚かもしれず、そうであってもかまわないと言わんばかりに、すべて否定されるのだ。そのかわりに、藤田が最終的な「現実」として観客に差し出すのは、物語の内容ではなく、いままさにこの舞台上で、架空の物語を歌い上げてきたこの身体、この声だけなのである。だからこし、最後の台詞を劇場の虚空に向けて発する青柳いづみは、まさに歌い手のような存在として、私たちに迫ってきたのだ。

 

 ★註1 「ローチケ演劇宣言」での徳永京子によるインタビュー。

http://engekisengen.com/genre/play/3580/) 2018年8月22日閲覧。

★註2 ちなみに、2018年1月にロームシアター京都で上演/展示された、高嶺格インスタレーション作品『歓迎されざる者』は、まさに北朝鮮の漂流船問題を鮮明に主題化した傑作だった。

 

 物語と現実の距離が一定以上に離れ、物語が現実のメタファーに必ずしも上手になりきれなくなったとき、私たちの前には「演劇」ではなく「歌」の構造が立ち上がってくる。その点に、私がこの作品を興味深いと思った一番の理由がある。演劇は、「歌」になりうるのだろうか。――『BOAT』は、そういうきわめて魅力的な問いへと、私たちを招き寄せてくれるからである。この問いは、それ自体「演劇」の本質にかかわるさまざまな別の問いを引き寄せてくる。そしてそのことをもっと深く考察するには、論をあらためる必要があるだろう。

 

しかしながら、同時にまた、私には、こうした藤田作品の特性にくらべて、東京芸術劇場プレイハウスのもつ、「かなり大きなサイズのプロセニアム舞台」という劇場空間が、あまりに「演劇的」でありすぎるように思われた。要するに、劇の特性が、劇場空間の特性と合っていないのである。

 

その合わなさは、もちろん、マイクなしで台詞の発するときの俳優たちの声がうまく届いてこないという即物的で、技術的な問題もあるのだが、もう少し本質的な問題もはらんでいるように思う。少なくとも本作に関するかぎり、東京芸術劇場プレイハウスがもつ「プロセニアム舞台」という形式自体が、藤田作品から、あるダイナミックな機動性を奪ってしまっているように思われたのだ。

 

私がこのように言うとき、たとえば、私は、昨年伊丹アイホールで見た『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと—————』などを思い出している。今回の『BOAT』と比べてみたとき、私はあらためて、藤田作品における「アングルの多様性」という演出手法の重要性に、あらためて気づかされた気がした。前者では、ほぼ円形に区切られたアクティングエリアで、家族の物語が展開される。その場合、同じシーンのリフレインは、同じ座席にいる観客の視線に、さまざまに異なるアングルで繰り返されることになる。同じシーンが異なるアングルからリフレインされるたびに、まるで同じメロディが違った楽器で演奏されるような、新鮮な驚きがあった。私は、この作品は、俳優たちがさまざまな大道具・小道具を楽器のように用いて演奏する、一種の音楽のように感じとっていたのである。

 

リフレインがアングルの変化と結びつくとき、観客は、藤田がいうところの「解像度の高い時間」を、その都度少しずつ違うニュアンスにおいて、とらえかえすことになる。藤田作品におけるアングルの多方向性は、明らかに、たんに俳優たちの見える向きが変わる、という以上の意味をもっている。ちょうど、同じメロディやフレーズでも演奏される楽器やアレンジが変わればまったく違って聞こえる、のと同じくらい、アングルが変わると「世界の表情」が変わるのである。「異常な解像度の時間」が、多彩なヴァリエーション(変奏)を生きること。藤田作品のダイナミズムは、おそらくそこにあるのだ。

 

BOAT』を見終わって、あらためて実感したこと。それは、東京芸術劇場プレイハウスという劇場空間を、堅固に規定している「プロセニアム舞台」という形式が、当然のことながら、やはり「演劇」のための空間である、という事実である。そしてその空間は、藤田作品が持つ独特のダイナミズム――繰り返しになるが、あえてそれを、私は「歌」のような音楽性、とひとまず表現しておきたい――を、むしろ平坦化し、すべての楽音が消えても歌いつづけようとする俳優たちの身体を、むしろがらんどうのような空間の小さな要素に還元してしまう。――だとすれば、『BOAT』という物語のラストで、〈難民たち〉が、ほかでもない〈街〉の劇場に爆弾をしかけたことも、あながち故なきことではなかったのかもしれない。歌う身体以外のすべてを無にしてしまう緞帳こそが、爆弾にほかならず、それこそが、「歌」が「演劇」から脱出しようとする抵抗の身振りだったのかもしれないからだ。

(2018年7月17日、ソワレ、東京芸術劇場プレイハウスで観劇)

 

 

 

【作品クレジット】

東京芸術劇場プロデュース『BOAT

日時:2018年7月16日-26日 場所:東京芸術劇場プレイハウス

作・演出:藤田貴大(マームとジプシー)

出演:宮沢氷魚 青柳いづみ 豊田エリー 川崎ゆり子 佐々木美奈 長谷川洋子 石井亮介 尾野島慎太朗 辻本達也 中島広隆 波佐谷聡 船津健太 山本直寛 中嶋朋子

スタッフ: 照明:富山貴之 音響:田鹿充 映像:召田実子 衣裳:suzuki takayuki ヘアメイク:大宝みゆき 舞台監督:森山香緒梨 宣伝美術:名久井直子 宣伝写真:井上佐由紀