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劇評のブログです

青年団 平田オリザ・演劇展 vol.6『走りながら眠れ』

 

この作品には、ある夫婦が過ごした、最後の夏の数日が断片的に描かれています。

 

 

夏の日。妻が鼻歌を歌いながらお茶を飲んでいるところへ、パリにいるはずの夫が帰宅する場面から、この作品ははじまります。

そして妻は、いつもそのようにしていたのか、それとも夫の帰宅を知っていたのかーーとはいえ、妻はひどく驚いていたので、夫がその日に帰ることを知っていたとは考えにくいですがーーあらかじめ夫のために準備されていた、盆に伏せて置かれているもうひとつの湯呑を手に取り、そこにまだ温かいままのお茶を注ぎます。夫は座布団に座ってそのお茶をすすりながら、団扇で顔をあおいだり、外国での思い出を話したり、パリで投獄されていた時のエピソードや、手紙の到着が遅れたことなどを話しつつ、なりゆきで始まった怪談話で妻をとじゃれあったり、妊娠している妻の腹に顔を近づけ寝転んだり、船から見えた虹の話を続けます。そんな他愛のない時間を過ごしているうちに、やがて、どこからか風鈴の音が聞こえ、そして二人は、連れ立って銭湯に向かうためにその部屋を出ていきます。

 

 

風鈴の音が鳴るなかで日付は変わり、夫が帰ってきたその数日後となる別の日。すでに妻は出産を終えているらしくお腹は小さくなっています。畳に寝転がる夫婦はファーブル昆虫記を読みながら、マイマイカブリの習性について話し合ったりしています。そして、椅子に座る犬は積極的かどうか、といった議論を交わしたり、ご近所さんの噂話に興じたりもします。

そして、いつかと同じように、風鈴の音が聞こえ、また別の日。数日後の居間を舞台とし、夫が子供時代に猫を殺していた思い出を語り、それに妻が驚いたり、いわしはオイル漬けよりも生姜醤油が美味しいとか、自身らの子供の旦那を上海で探すとか、まだ6歳なんだから今からそんなことを考えなくてもいいんじゃない? とか、そんな話をするなかで、また、風鈴の音が聞こえ、また、別の日が訪れます。

 

 

もちろんそこに描かれている夫婦が、大杉栄伊藤野枝であるということは、二人の会話の端々から知ることもできるわけですし、作中では(多分)一度だけではあるものの、大杉栄と野枝というふたりの名前が口にされたりもするし、それに、そもそもではありますが、チラシやパンフレットでも二人の名前は記されているわけなので、観客の誰もが、その二人が、「無政府主義者」や「運動家」や「革命家」などの言葉とともに語られるような、いわば神話化された人物であることを知っています。しかし、あるいは、だからこそ、本来であればもっと劇的に描かれて然るべきはずの「アナーキスト」たちが、他愛もない雑談を続けている姿を見ながら、彼らが「無政府主義者」で「運動家」で「革命家」であったのだとしても、そりゃあ畳に寝転んだりもしただろうな、という、平凡さへの新鮮な驚きを感じつつ、あるイメージやカテゴリに寄り添いながら語られることで、忘れられたり、見逃されたりするような、彼らの平穏な生活と、それによって彼らが「無政府主義者」や「運動家」や「革命家」である以前に、父であり母であり妻であり夫であるような平凡な誰かであったことも、この作品を見ることで思い出すこともできるのです。

 

 

さて、この作品は二人が最後に過ごした夏ーーということは、その夏が終わるとすぐに、関東大震災が起こるということであって、それはすなわち、地震の混乱に紛れるようにこの夫婦が憲兵に殺害され、さらに、彼らの遺体は、ほとんど全裸の状態で古びた井戸へ投げ捨てられ、そして、彼らの遺体を隠すように、その上から、馬糞やレンガなどがその古井戸に投げ込まれることになるのですがーーを描いています。ただ、どの一日もすべてが、ゆるやかに過ぎていくだけで、この作品にあらわれる二人は、居間でいつまでも横たわりながら、団扇を仰ぎ、お茶を飲み、ファーブル昆虫記を通して虫の話をしながら、いわしの話をしながら今晩の夕食にいわしを食べようと決めたりするばかりの、取るに足らない白日を過ごすだけであり、まるでそれは、特別な意味とともに語られる名前をもった「大杉栄」や「伊藤野枝」ではなく、誰しもが過ごしていたであろう一日をなにも起こらないまま終わらせていくだけの、誰でもない「彼」や「彼女」、「夫」や「妻」であるかのように見えてくるわけです。

 

 

しかし、その無徴性や匿名性とともに上演されているこの作品で、その最後の場面において、大杉が唐突に、「地震が来るよ」と、予言めいたことを言うセリフを聞いてしまうと、観客は、そこで予言される地震が、すなわち「関東大震災」と後に名指される地震であることに気がつくはずです。そして、その夫の口から語られる地震、すなわち「関東大震災」が、同時に別の意味を持つことを知っている観客は、ついさっきまでは固有名を持たない「誰か」であるかのようだった夫婦が、再び、「大杉栄」や「伊藤野枝」であることを思い出し、もうすぐ地震が来るという予言が、すなわち、この夫婦が見舞われる非道な殺人を同時に示唆していることに、気が付くことができるわけです。

 

 

 

しかし、そのような観客の予見に関係なく、大杉は、また、畳に寝そべって、大きな声で誰にそれを言うでもなく、この作品の最後のセリフである、「楽しいなあ」という一言を叫びます。もちろん観客は、彼の「楽しいなあ」という言葉を、彼の移りやすい気分の変動を表す言葉として聞くのではなく、少しまえに彼自身によって予言された地震と、史実として記憶されている夫婦の残虐な死の記録を思い出しながら聞くことになるでしょう。そして、いままでであれば、夏の白日に不意に鳴り続け、その音によってふたりの時間を数日ずつ未来に進めていた風鈴の音は、この場面では聞かれないわけですが、しかし、その場面において本当に失われているのは、風鈴の音ではなく、風鈴の音が呼び込んでいた、この夫婦の未来であり、少し先の未来をその舞台上に呼び込んでいた風鈴という装置はすでに、震災を前にしたその夫婦に対しては、その役目を終えていたのだと思います。

 

 

 

とはいえ、当日パンフレットにも書かれている通り、「劇中で交わされる会話は全てフィクション」であるわけで、劇中で描かれているような些末で些細な会話をふたりが本当にしていたかどうかはわかりません。しかし、同じくパンフレットにて、「書かれているエピソードは、ほぼ史実に基づいています」と記されている通り、作中では、大杉が子供時代に猫を殺していたという、大杉の『自叙伝』にも書かれているエピソードが使われていたり、雑誌『青鞜』の執筆者であった野枝が大杉との噂話に興じている、心中未遂をしたという「平塚さん」や、作中では名前は明かされないものの、野枝が宮沢賢治に会ったことを大杉に話す際に、その宮沢を「変な人」と語っていたりするような、文学史的なトリビアを含めた会話を見るだけでも楽しい作品です。また、簡素な美術と照明変化、そして音響は風鈴だけという僅かな設えにも関わらず、どんどん話題が入れ替わりながら二人の日々が立ち上がっていく過程を眺めているだけでも、客席ではうっかり心地よくなれると思います。

 

 

しかし、せっかくならばこの『走りながら眠れ』を、今年、京都の「シアターE9」で見る前に、ほんの少しでも「大杉栄」や「伊藤野枝」について知っておくのが、やはりオススメではないでしょうか。

というのも、すでに「シアターE9」のサイトでは、青年団がその劇場で作品を上演することについては情報公開されていましたが、こまばアゴラ劇場にて開催中の「平田オリザ・演劇展vol.6」で配られる当日パンフレットを見ると、どうやらその作品は、『走りながら眠れ』であるそうです。

 

京都でこの作品を見ることができるチャンスを逃すべからず、ということでもあるわけですが、せっかくであれば、「無政府主義者」である「大杉栄」や「伊藤野枝」という象徴的な人々が、とても生活感溢れる語られ方をしてしまうことを楽しむためにも、少しだけ彼らの著作を読みかじってみるのも良いのではないかと思います。ちなみに、ここでは大杉を「無政府主義者」と書きましたが、じつは大杉は「社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる」なんてことも書いています。では、大杉栄はいったい誰なのでしょう。

 

 

シアターE9のラインナップで上演される作品をたまたま見ることができたので久々の投稿。E9はまだまだ建設準備中。

クラウドファンディングが成功するとどうにも熱が冷めがちですが、こういう作品が上演される劇場を、どんどん皆で応援していきましょう。

https://askyoto.or.jp/e9/

 

 

〔作品クレジット〕

青年団 平田オリザ・演劇展 vol.6『走りながら眠れ』

日時:2019年2月15日-24日

会場:こまばアゴラ劇場

 

作・演出:平田オリザ
出演:能島瑞穂 古屋隆太

 

企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場