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ブルーノ・ベルトラオ『イノア』

演目:グルーポ・ヂ・フーア『イノア』(ブルーノ・ベルトラオ作)

評価:★★★★★★★☆☆☆(7点/10点満点)

 

ブルーノ・ベルトラオは魅力的だが、この程度の成功でとどまってはいけない

 

森山直人

 

 結論から言おう。この作品は素晴らしい。いや、それどころか、もっと素晴らしい作品になる資質さえ備えている。だからこそ、あえて言いたい。ほんとうに、この程度の成功でよいのだろうか。

 

 ブルーノ・ベルトラオ(1979年生)が率いるグルーポ・ヂ・フーアの公演を見るのは、これが2度目だ。2009年にフェスティバル/トーキョーで来日した『H3』は、ヒップホップとコンテンポラリーダンスが融合した、新しい時代の到来を告げる作品として、大いに喧伝されたと記憶している。「あのウィリアム・フォーサイスが絶賛した」という情報だけでも、見る前から観客の心をはげしく掻き立てるのに充分だった。しかもそれは、まだ立ち上がったばかりのフェスティバル/トーキョー(F/T)という新しい国際舞台芸術祭に対する、抑えがたい期待感とも相乗していたのである。ちなみに、今回唯一の国内公演が行われた山口情報芸術センターYCAM)は、『H3』を、F/Tと共同で招聘しているので、ベルトラオとはその時以来の付き合いとなる。2013年に、ベルトラオは一旦カンパニーの活動を休止し、本作は久しぶりの作品制作となった。ドイツ・ハンブルクのカンプナーゲルや、ウィーン芸術週間などの共同製作により、昨年5月に世界初演を果たした作品である(ちなみに、タイトルの「イノア」とは作品が制作された土地の名だという)。

 

 まず、なにが、素晴らしかったのか。いうまでもなく、ダンサーたちの圧倒的な身体能力である。それこそ、見ているだけで楽しくなる。全部で10人の男性ダンサーだけ(20代・30代)で構成されているメンバーのなかには、彼が活動休止以前から一緒に作品づくりをしていた者もいれば、今作がはじめての参加となる若いメンバーもいるのだという。そうした彼らが、ストリートのようなラフな服装で、デュオからトリオへ、そして全員(もちろん、アンチ・ユニゾン)へと展開していく。

 

 だが、やはり瞠目するのは、それぞれの個人技が爆発した瞬間である。人の背丈ほどもジャンプしたかと思えば、そのまま床に落下し、しかしたんに落下するのではなく、次の瞬間信じられない身体のバネを使って、文字通り、ボールのようにバウンドし、難なく次の動作に移っていってしまう。そんな場面が、約1時間の上演時間を通じて、何度となく繰り返されるのである。そして、そんなパフォーマンスを繰り広げるひとりひとりのダンサーの顔も、いかにも魅力的だ。それぞれが、一種の優しさと暴発しそうな危うさを同時に内に秘めており、それだけでも世界が立ち上がってくる。アクティングエリアの間口は、6,7メートル、奥行きは5メートルくらいといったところだろうか。床面は漆黒で、一切装置の類はない。ただひとつ、舞台上方に、エリアを囲む形で、コの字型の、横長のスクリーンが吊られている。終演後ベルトラオ自身に話を聞いたところによれば、彼らがリハーサルをかさねているガレージのようなスペースに、まさにそのような細長い窓があって、「外」の光や風景がさしこんでくるそうだ。

 

 この作品の特徴は、ダンサーたちが普段踊っているのであろうヒップホップの動きを抑制し、より幅広い身体表現としてのコンテンポラリーダンスとしての可能性を探ろうとしている点だ。ダンスとしてのヒップホップ的なボキャブラリーが抑制されているだけでなく、音響面でも、ヒップホップ的な音楽はまったく用いられない。代わりに、空間を満たしているのは、たとえば、飛行場のノイズのような合成された環境音であったりする。これも、終演後に演出家が強調したことだが、彼がこの作品で探究したかったのは、ヒップホップならば不可欠であるはずのリズムやカウントをむしろ排除し、その代わりに、ダンサー同士がお互いの次の動作のキューを出し合うような、コミュニカティヴな関係性を通じて生まれる表現の可能性である。いいかえれば、ダンスを紡ぎだす原動力は、音楽ではなく、あくまでもダンサー同士の身体の相互作用である、というのが、『イノア』のコンセプトだったということであり、その点を見誤る観客は、おそらくほとんどいなかっただろう。

 

 もちろん、そうした試みは、演出家として当然持つべき発想である(いくら優秀なヒップホップダンサーだからといって、ヒップホップを見せることが、この作品の目的ではないのだから)。ただ、そうした側面から見たとき、残念ながら、この作品の弱点もまた見えてきてしまう。一言でいえば、それは「間(ま)」の感覚の甘さであるといってよい。たとえば、ダンサーとダンサーが、お互いのタイミングをはかり、次の動作へと移り変わるまさにその瞬間、彼らの身体が、あらゆるテンションを内包した「静」を実現しきれていないために、動きが不必要に流れてみえてしまうのだ。

 

 ヒップホップの音楽を使わない、という演出的な選択は、何を意味しているのか。ある意味で、それはヒップホップダンサーの〈身体〉から、ヒップホップとは異なる新たな〈リズム〉を引き出そうとする試みであるといえる。そこに、この作品の作品としての挑戦があり、魅力であることは論を待たない。だが、先に述べたような個々の抜群の身体能力に比して、曲のリズムに依らない〈リズム〉の創造、という点では、到底、最高レベルの能楽には及ぶべくもない。むしろ、完璧に静止することのできない身体の未熟さのほうが、際立ってきてしまう。――いったい、そのことを、どのように考えたらよいのか。

 

 したがって、この作品は、個々の身体能力の若々しさに依拠した、良くも悪くもアバウトな作品なのだというべきである。もちろん、ここでアバウトと言うとき、アバウトなものが放つどうしようもない魅力というものがあり、それをこの作品のダンサーたちが持ち合わせていることは、充分に考慮にいれた上でのことである。いろいろな演出的工夫は見られるとはいえ、やはりこの作品の、現時点における最高の魅力は、身体の、活き活きした素材としての魅力であり、新鮮さなのだ。

 

 だからこそ、この作品を見終えた今、私は、何かもどかしい、不完全燃焼な印象を拭えずにいられない。はたして、彼らのもっているあの身体性が私たちにもたらしてくれる興奮は、この程度にとどまっていてよいのだろうか。それぞれの身体がもっているアナーキーで自由な魅力にくらべて、複数のダンサーが相互に絡み合って作られるムーヴメントは、やや大雑把な言い方になってしまうが、いまのところ、あまりにも、「よくあるコンテンポラリーダンス」の雰囲気に似すぎてしまっている。あるいは、そういう鋳型に、無意識にはめこもうとする意識から、演出家自身が完全に抜け出してはいないのではないか。――だが・・・

 

 ・・・だが、ここで私は、若干複雑な思いに囚われていることも、また白状しなければならない。ベルトラオは、ブラジル・リオデジャネイロを本拠にしている。そのことから、私はどうしても、彼の作品を、同時代のラテン・アメリカのダンス作品と比較してしまう誘惑に勝てずにいる。

 

 たとえば、リア・ロドリゲス(ブラジル)。2012年に京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT)で上演された『ポロロッカ』は、素晴らしい作品だった。ベルトラオと同じリオのファベーラ(貧民街)を拠点としている彼女の作品は、文字通り、日常が危機と隣り合わせの身体性を、見事な舞台作品として実現していたのだった。あるいは、ルイス・ガレー(アルゼンチン)。とりわけ、2014年に同じフェスティバルで上演された『メンタルアクティヴィティ』と『マネリエス』の2本は、いまだに忘れがたい衝撃を私たちに与えてくれている。そして、マルセロ・エヴェリン(ブラジル)。とりわけ、昨年の同フェスティバルで上演された『病める舞』・・・。こうした南米の振付家たちは、いずれもきわめてレベルの高いアクチュアルな作品を、私たちに提供しつづけている。もしも私が、過去10年に見ることのできたダンス作品のベスト10を選ぶことになったら、こうした作品の少なくとも2,3本は、確実に指を折ることになるに違いない。――それらと比較してみたとき、ベルトラオは、率直にいって、まだ若い、といわざるを得ないところがあることも、またたしかなように思われる。

 

 しかし、である。ロドリゲスにせよガレーにせよエヴェリンにせよ、彼らは、ヨーロッパという舞台芸術の中心地で直接学んだキャリアを持つ、いわばダンス・エリートであることも、またたしかなのである。(たとえば、ロドリゲスが、ベケット不条理劇をモチーフにした『May B』で日本にも支持者の多い、マギー・マランのカンパニーメンバーでもあったことはよく知られている)。それに対して、ベルトラオは、そうした経歴を踏んでいない。ロドリゲスにせよガレーにせよエヴェリンにせよ、彼らの作品にかんしていえば、前衛的なコンセプトと同様に、彼らの劇場空間の使い方の巧みさには舌を巻くばかりだ。それに対して、ベルトラオの場合は、どうか・・・。

 だが、だとすると、やっぱり舞台芸術は、けっきょくいまだに、ヨーロッパ型の劇場空間(今回のYCAMの劇場空間も、基本的には同じである)で映えるものだけが、やはり生き残るということになってしまうのだろうか。いまや、こうした発想にたって、ロドリゲスやガレーやエヴェリンを讃え、ベルトラオに未熟さだけを感じてしまうのは、それ自体、すでに時代錯誤になりつつある感覚なのではないか・・・。

 

 もしかすると、私のベルトラオに対する不満は、それ自体、打ち破られるべき反動なのではないか(劇場がうまく使えていないのか、それとも、劇場がもはや窮屈なだけなのか)。そして、私としては、そうした私の中の、西欧中心主義を完膚なきまでに打ち砕いてくれる「新生ベルトラオ」を夢想してしまうのだが、そうした夢想自体とて、反動の裏返しに過ぎないのかもしれない。少なくとも、いまの時点で私に言えることは、この作品が「劇場」ではなく、もっとストリートに近い場所で見たほうが、作品の輪郭がもっと鮮明に見えたのではないか、ということだ。ほんとうはそんなことが一瞬でも頭をよぎらずともすむような演出家としての深化を、静かに願うにとどめておくべきなのかもしれない。もう少し、ダンサーたちの身体の相乗効果を引き出す方法論が変わっていけば、作品そのものが、もっと魅力的で、爆発的なものになるに違いないのだから・・・。ヒップホップを唯一の窓口として、「コンテンポラリー」を立ち上げようとするベルトラオには、いっそのこと、私たちが知っている「コンテンポラリーダンス」を木っ端微塵に破壊してほしい。西欧中心主義を吹き飛ばし、それに依存してここまで生き延びてきた「明治維新150周年」などという時間の虚しさを高らかに嘲笑し、見ている私たちが、死んでもいい、と思わせるようなダンスを作ってほしいのだ。

 

 だから、いまは、あえてこう言っておきます。

 頑張れ、ブルーノ・ベルトラオ!!

 

山口情報芸術センターYCAM) 2018年9月2日に観劇)

                                                     

 

グルーポ・ヂ・フーア『イノア』 INOAH by Grupo de Rua

2018年9月1日・2日/山口情報芸術センター

作:ブルーノ・ベルトラオ

出演:ブルーノ・ドゥアルチ、クレイジソン・ジ・アウメイダドウグラス・サントス、

イゴール・マルチンス、ジョアン・シャタイニェール、レアンドロ・ゴメス、レオナルド・シリアコ、ホニエウソン・アウラージョ・カプー、シジ・ヨン、アウシー・ジュニオル・キプエ

照明:ヘナート・マシャード

衣装:マルセロ・ソンメル

音楽:フェリペ・ストリノ

演出助手:ウゴ・アレシャンドレ・ネヴェス

世界初演:2017年5月30日/カンプナーゲル(ハンブルク