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ジョン・グムヒョン『リハビリ トレーニング』

 

 KYOTO EXPERIMENT 2018で上演されたジョン・グムヒョン『リハビリ トレーニング』は、きわめてシンプルな没入型の(immersive)パフォーマンスだった。フラットなホールには、トレーニングベッド、リフトマシン、歩行訓練用の機器、装具や固定用ベルトをのせた机など、リハビリ用のさまざまな器具が無造作に置かれている。アクティングスペースと鑑賞スペースは固定されておらず、観客はホール周縁部に用意されたキャスター付きのスツールに座ったり、思い思いに席を動かしたり、立ち上がり席を離れたりしながら、ジョン・グムヒョンと原寸大の男性人形(医療の教育現場で患者をケアする方法を学ぶために作られたもの)が連携して行う活動を見つめる。2時間40分に及ぶ上演の枠組みはほぼそれだけであり、派手な趣向が凝らされているわけではないが、淡々と流れる時間のなかでひそやかに表現の筋力が伝わってくるような魅力的なパフォーマンスだった。

 おもむろに積み重ねられるトレーナー(パフォーマー)とトレーニー(ダミー人形)の協応活動。それは寝返り、起き上がり、起立、歩行といった諸動作の練習から、細かな手先の動きを要する課題へと移っていく。その様子が一般的なリハビリ・トレーニングから際立って遊離し始めるのは、作業療法的なタスクの末に、人形の上肢がパフォーマーの洋服のファスナーを下ろすべく導かれるあたりだろうか。その後、性交の姿形や身振りがありありと表面化してくるのだが、ナビゲートしていたはずのパフォーマーが人形のポーズに自らの身体をあてがうことに翻弄されるといったように、オペレーターと操作対象、トレーナーとトレーニーの関係は宙吊りとなる。あるいは、ヒトがモノを(モノがヒトを)媒介として自己にコンタクトするありさまが、他者との関係を包含する再帰的な様態を帯びてくる。

 ケアワークの実演から性愛のデモンストレーションへ。このパフォーマンスの表層の推移は、モチーフの安易なすり替えや横滑りなのだろうか? そうではないだろう。《リハビリ・トレーニング》という言葉は、再び(re-)適した(habilis)状態を求める訓練と解するのが一般的であるが、ここに「トレーニングの再・適応」を重ねる視点が、この作品の根幹に触れているのである。性愛のデモンストレーションに垣間見られる、どことなくハウツー本や通俗的な性科学書の図解を思わせる姿形は、おおむね「ノーマルセックス」をなぞらえたダミーの域を出ることはないが、ジョン・グムヒョンが自らに課しているのは、「正常な性愛」に飼い慣らされる(trained)状態の虚構性をシミュレートする訓練(training)と見なしうる。そしてこのステレオタイプの意図的な導入が、紋切り型の文化的アイデンティティへの順応ではなく、そこに順応しえない身体の他者性を析出するための選択であるとすれば、ここでの「適応」はアダプテーションと読むべきなのだろう。

 2011年のジョン・グムヒョンの来日作品『油圧ヴァイブレーター』では、アーティスト自身の重機に対する性的空想が扱われたというから、あるいはそこには彼女の一貫したこだわりや創作のインスピレーションを探るためのヒントが潜んでいたのかもしれない。韓国を拠点に国際的に活動する振付家/パフォーマンス・アーティストの作品といったほどの予備知識をもって今回の上演に触れたわたしには、その点は詳しくわからないが、『リハビリ トレーニング』が特有の性的偏向にちなむ閉鎖性よりも、多彩な文脈を喚起する開かれた作用を強く感じさせるものであったことは確かな気がする。ある程度、具体的な関連に絞ってみても、たとえば常套化した性的イメージを駆使した倒錯的な官能へのアプローチがこの作品に読み取れるとすれば、それは様相の違いこそあれマゾヒズム的なパフォーマンス(プレイ)と無縁とは思われない。さらにステレオタイプという虚構のパロディ化や、シミュレーションというもう一つの虚構の構築と破綻のありさまは「性的シナリオと演技」の主題に連なり、そこから舞台芸術おける「演技」や「トレーニング」を見返す視野が開けてくるかもしれない。いずれにしても様々な連想への契機を含みながらも、既存の文化・社会的なコードだけでは解しがたいところに、この作品の大きな魅力がある気がする。つまり、わたしたちはシミュレートされたトレーニングという念入りな迂回路の含意から、その迂回路がたどられた模様へと立ち戻らなければならない。

 通常《リハビリ・トレーニング》と称される活動は、能力の回復や機能の向上を目指すものであり、到達すべき目標の設定や、行為を特定の目的に適う行為として追求する姿勢をともなうものである。だが、ジョン・グムヒョンは、そうした目標・目的志向からはるかにへだたった地平で、あたかも末梢的な行為の連続それ自体を目的化するかのように、タスクを構成する些細な手順の一つ一つにとどまろうとしている。上演中、自らの収集品であるらしいプロダクトに傾けるアーティストの官能は高まっているのかもしれないが、少なくとも外見上、彼女は無表情な顔つきと、熟練/不慣れともつかない、執着/無頓着のほどの推し量りがたい手つきをおおむね維持している。身振りの連続から時おり乾いたユーモアが生じかけるが、そこに虚勢のようなものはほとんど感じられない。終盤にかけて、ダミー人形の首が胴体から外れてしまい、パフォーマーの四苦八苦する様子がやや目立ってくるあたりには、ハプニング的な演出を汲むことができるかもしれない。しかし、そもそもシミュレーションを軸とするパフォーマンスの基底に「演技の生」と「生の演技」の見極めがたい交錯が横たわっているとすれば、合目的な運動と失行(もしくは意図と意図を超えるもの)が判別しえない事態に身を委ねることを、観客は要請されているともいえる。むしろ注意深く感じ分けられるべきは、「演じていること」と「演じられていること」のあいまいな領域から不随意に滲みでてくるヒトのバイタルの揺らぎや、不意に去来する「モノがモノであること」の手ごたえの揺らぎだったのではないだろうか。

 ある身体的快楽の固有性が、社会的に統合された共通項にくくりえない剰余をはらむということ。そして、その剰余が、身体とそれを取り巻く領域との関係を、極私的に地道にたどることなしには確かめられないということ。そうした生の実感を清々しいほどに淡々と背負い込んでいるところに、このパフォーマンスの最良の部分が感じられた。(2018年10月6日、ロームシアター京都で観劇)

  

 

〔作品クレジット〕

KYOTO EXPERIMENT 2018(京都国際舞台芸術祭2018)

『リハビリ トレーニング  Rehab Training』

日時:2018年10月6日-8日

会場:ロームシアター京都 ノースホール

 

コンセプト・演出:ジョン・グムヒョン

出演:ジョン・グムヒョン

映像記録:ナム・ジウン

写真:ジョン・ミング

協力:アンドレ・シャレンベルク、アン・イニョン、Medi&Shop、ナタン・グレイ、ニコラス・モン ドン、ヒョン・セウォン、ソウル市立美術館 

共同製作:パクト・ツォルフェライン(エッセン)、Audio Visual Pavilion(ソウル)

レジデンス:パクト・ツォルフェライン(エッセン)

助成:アーツ・カウンシル・コリア

主催:KYOTO EXPERIMENT