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東京デスロック+第12言語演劇スタジオ『가모메 カルメギ』

 

 

 対面客席のあいだを貫く長細い舞台に額縁状の柱と梁の構築物が立っている。床には1930年代から現今にかけてのさまざまな時代の遺物、たとえば家具、衣類、電化製品、こまごました日用品、さらにおびただしい数の新聞紙が散らばっている。一大事の過ぎ去った後らしい気配の漂うその場所に、登場人物が次々と姿をあらわす。彼ら/彼女らは同一方向に流されるようにくりかえし舞台を通り過ぎて、入り組んだ人間模様を浮かびあがらせた果てに、やがて一人残らずあたりの遺物にその身を埋めて死に絶え、ほどなくして蘇る。

 東京デスロックと第12言語スタジオによる日韓合同公演『가모메  カルメギ』は、日本の植民地支配下にある朝鮮半島を地域設定として、チェーホフ「かもめ」をアレンジした作品である。あえてストーリーを省いて以上のような素描を示したのは、この作品の底部で控えめに脈打っているモチーフにまずは触れておきたかったからだ。上演にさまざまに組み込まれている〈循環〉や〈周期〉のモチーフは、たとえば原作の次の台詞と共鳴しつつ、生命のサイクルや時の流れといったメタフィジカルな主題への連想を促すように働いていた。「つまりは一さいの生き物、生きとし生けるものは、悲しい循環(めぐり)をおえて、消え失せた。」「わたしは、何もかも、残らずみんな、覚えている。わたしは一つ一つの生活を、また新しく生き直している。」(チェーホフ「かもめ」第一幕、ニーナが演じる劇中劇のセリフ)。

 チェーホフ劇との関連の点でいえば、時代考証にもとづく翻案では、劇中劇や恋愛(ないし情事)をめぐるエピソードの多くが踏まえられていることになる。その一方で、原作の特徴である世界の動きから遊離するかのような一種虚ろなおしゃべりは、日中戦争開戦前後の政治状況と密接なつながりをもつ実のこもった語らいへと変化している。日常会話とは似て非なるチェーホフのそれとくらべてかなり素朴な口語体のセリフと、ナチュラル(風)な身のこなしをベースとする俳優の演技によって場はテンポよく結ばれていくのである。

 登場人物の性的な力関係と東アジアの植民地主義的な支配‐被支配の関係とが部分的に重なって見えるドラマのつくりや、ある種の力業的な演出―たとえばフィクションとしての〈過去〉が観客の〈現在〉と分離して硬直することを回避するかのように、ドラマの進展にJ‐POP/K‐POPのサウンドやカラフルな照明が絡み合わされる―などに、全く気を引かれなかったわけではない。けれどもそうした点よりも、日韓の俳優によって韓国語と日本語(劇中では「朝鮮語」と「内地語」)それに若干のエスペラントが話される多言語劇としての特徴の方が、わたしには興味深かった。

 この作品における多言語性は、まずテクストのレベルで際立っている。1930年代後半、植民地朝鮮の言語状況(権力による言語管理、その反動としての言語ナショナリズム、etc. )を踏まえた台本には、外国語混じりの母語や片言の外国語がちりばめられている。そして上演のレベルで担われるそれらの発語は、全体として効率的な物語伝達の義務に傾きがちな一連の会話にあって、ときおりたどたどしさや言い淀みの調子から〈意味〉に変換しがたいものを生じさせているようだった。劇中には言い直しや聞き返しといった発話の身ぶりが何度となくあらわれるが、原作のトリゴーリンとニーナに相当する人物が、相手の名前の呼び方(固有名詞の発音)の正確さをめぐってもどかしいやりとりを重ねるあたりでは、互いに異なる母語の響きに分かたれた二人の人物の交流とすれちがいが、言葉そのものに焦点をあてつつ浮き彫りにされている。これは上演タイトルと呼応するシークエンスとしてもとらえることができるだろう(※註)。

 もちろん舞台に立ち現れていたのは、二重言語状態を強いられる人びと、もしくは自ら多言語状態に身を置こうとする人びとの発話の再現ばかりではない。俳優自身がいわば母語の外へと足を伸ばし、自己から送り出し/他者から送り返される判然としない響きに足場を求めようとする微妙なバランス。そこには一〇年にわたって積み重ねられてきたという国境を越える協働作業のなかで培われた感覚が働いていたのだろう(日本語の声と字幕をたよりに観劇するよりほかなかったわたしは、残念ながらこの点について踏み込んで語ることはできない)。

 肯定的に語ってみたい事柄を中心に記してきたが、改めて観劇の記憶を探ってみると、いくつかの疑いが沸いてくる。この作品は、基本的には〈歴史〉を素材として扱い、その上で創意工夫を凝らすという手続きを旨としている。たしかに演出にはその手続きを相対化する視点が含まれているが、近代劇的な創作の手つきが根底から覆されていたとは言い難い。そして、そのことによって必然的に生じてくる磁場―たとえば表現が〈内容〉の表現として享受される傾向を助長する場のあり方―は、必ずしも充分に見積もられているようには見受けられなかった。

 さらにそこで凝らされていた創意工夫に目を向けるならば、すでに少し触れたように、この作品の主な演出的着想(俳優の動線のコントロール、大胆な音響・照明効果の活用、etc. )は、おおむね第一義的な素材(朝鮮半島の歴史性)とは別のところに拠り所をもっている。もちろんそれはそれで悪いわけではないが、翻案台本がチェーホフ劇におけるメタシアターの構造を踏まえつつ、1930年代の韓国演劇における新派調やそれに対する反撥などのエピソードを跡づけたものである以上、演劇そのものの歴史性、とりわけ内容と手法にあいわたる位置にくる〈演技〉のそれが、もっと掘り下げられても良かった気がする。

 演出の多田淳之介は「私たちは、私たちが歩んできた10年の歴史をもって1930年代からの日韓の歴史と対峙」すると述べているが(『가모메  カルメギ』当日パンフレット)、こうした自負は、作品の終幕部分において歴史年表的な項目と本上演にまつわるトピックとを織り交ぜた字幕を次々と映し出すという処理にあらわれている。自らの歩みを介在させながら、人間の〈歴史〉と呼ばれているものを扱うことの意味を演劇的にたしかめてみること。それがこの日韓コラボレーションの指針にかかわるならば、そこに韓国と日本の近代演劇がたどった/たどらざるをえなかった歩みのさらなる再検討が要請されているといえはしないだろうか。(2018年7月21日、AI・HALLで観劇)

 

 

※註

上演タイトル《가모메  カルメギ》は、〈か〉〈も〉〈め〉という日本語の音を示すハングルと、〈かもめ〉の意味をもつ韓国語の音を示す日本語(カタカナ)からなる。つまり日本語と韓国語どちらか一方に引きつけてみても解することができない語の連なりであり、われわれを包んでいる二つの母語の圏域のありようを改めて思い起こさせるものとなっている。演出家による上演タイトルについての言及は、多田淳之介インタビュー(http://www.aihall.com/karumegi_itami_interview/)を参照。2018年9月20日最終アクセス。

 

 

〔付記〕

本文中、原作テクストについては、神西清訳「かもめ」(『チェーホフ全集』第12巻、中央公論社、1975年)から引用させていただきました。

 

 

〔作品クレジット〕

東京デスロック+第12言語演劇スタジオ

『가모메  カルメギ』

日時:2018年7月20日‐22日  場所:AI・HALL伊丹市立演劇ホール

演出:多田淳之介(東京デスロック) 原作:アントン・チェーホフ 脚本・演出協力:ソン・ギウン(第12言語演劇スタジオ)

出演:夏目慎也 佐山和泉 佐藤誠 間野律子 ソン・ヨジン イ・ユンジェ クォン・テッキ オ・ミンジョン マ・ドゥヨン チェ・ソヨン チョン・スジ イ・ガンウク

スタッフ:ドラマトゥルク:イ・ホンイ 翻訳:石川樹里 照明:岩城保 舞台美術:パク・サンボン 舞台美術コーディネーター:濱崎賢二 舞台監督:浦本佳亮 棚瀬巧 音響:泉田雄太 衣裳:キム・ジヨン 衣裳管理:原田つむぎ 小道具:チャン・キョンスク メイク:ソク・ピルソン 演出助手:岩澤哲野 チェ・ヨンオゥン 通訳:キム・ジョンミン 

企画制作: 東京デスロック、一般社団法人unlock