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渡邊守章『繻子の靴』 四日間のスペイン芝居

 

 

『繻子の靴』を見た。

 

 本当はそう胸を張って言いたいが、実際にそれを「見た」と言えるのか、正直あまり自信がない。

 別に目を閉じ続けていたわけでもなく、まして眠っていたわけでもないのだが、上演時間8時間の舞台を見るといった経験は、隅から隅まで見尽くした、というよりは、むしろ、あらゆる細部を見逃したり、話の筋を聞き逃したり、登場人物同士の関係を忘れたりしながら見たということだと思うので、どちらかといえば、「見た」ものよりも、「見逃した」ものの方が多いのではないかと思いつつ、そんな事を考えた結果、『繻子の靴』を見た、という書き出しは少し間違った一文で、正確には、その『繻子の靴』を、沢山の細部を見逃しながら見ていた、と書くのが、より正直な文章であるような気がする。ただ、今作のような8時間の上演でなく、75分とか100分とか、そんな平均的な上演時間の作品を見ることであっても、ついつい途中で照明の吊り方を見たり、話している人の顔ではなくその人の衣装がズボンの裾から出ているのが気になったりしてしまうものだから、演劇公演というものは、得てして多くの細部などを見逃したり、聞き逃したりしてしまうものではないだろうか。

 

 あるいは、林達夫という人であれば、「セリフは要所要所だけが分かればそれでよい」なんてことを、平気で書いてしまう。

 

僕たちだって、歌舞伎にしろ、シェイクスピアにしろ、その脚本を精読していっても、セリフの全部はなかなか聴き取れない。また、その必要もない。むしろ、またしても言えば、セリフは要所要所だけが分かればそれでよい。そして、要所のセリフは名文句や紋切り型ほどいい。レトリックでいうトピックスだ。それを巧く使っていればいい。これが芝居を作るコツですよ。

(引用:林達夫久野収『思想のドラマトゥルギー』)

 

 そして、歌舞伎を見ながらその客席で、煙草を吸ったり弁当を食べたりしていたはずの観客が、《芝居のハイライトにさしかかると、とたんにクルリと振り向いて、“待ってましたァ”》と声をあげる風景などを例に出しながら、林は、演劇を見ているときには、全部の台詞なんて聞き取れないし、そんな必要なんかない、と、あけすけに語るわけである。

 もちろん、わたしたちの多くは演出家ではないので、「芝居をつくるコツ」なんてものは知らなくても良いと思う。しかし、つくるコツにはそれほど関心がなくとも、この林の発言は、もしかしたら、「芝居を見るコツ」として、大いに役立つかもしれない。

 

 実際、付箋を貼って蛍光ペンを引き、何度も何度も読み返したあの小説やその論文を、しかし何度も忘れるからこそ、わたしたちはその本を、二度三度と読み返すことが出来るのだし、見慣れた表紙の本を開いても、まるで今日、自分はそれを初めて読んだのではないか、と錯覚してしまうような、いままで気にも止めなかった美しかったり驚きだったりちょっと笑える文章などを見つけてしまったりするのだから、とても平凡な言い方ではあるけれど、それがどのような物語であれ、その全てを、自らの手、というか目や耳の中へ不可分なく収めることなど、はじめから、夢のような話なのだろう。まして客席からは、付箋を貼ることも出来なければ、マーカーを引くことも出来ないし、忘れたことを思い出すために、すでに通り過ぎたページを逆向きにめくることも出来ないのだから、多くのことが見過ごされたり、忘れられたりしてしまうのは、上演を見ることに関わるやむを得ない事情であり、その意味で演劇は、ドアを閉められた密室の中で今まさに生まれたものが、しかし今まさに目の前で消えていってしまう、死産された命のような宿命を、そもそもから持っているのかもしれない。

 とは言え小説だって、時々は、やっぱり忘れられてしまう。

 

驚いたことに私は『菅野満子』の内容をまったく憶えていない! 『菅野満子』を読み終わって『寓話』にとりかかったらやっぱりこっちも何も憶えていない! いや、ごく部分部分で思い当たるところがあるから読んだことは間違いないのだがーー、というよりも、あの、かつて読んだときの高揚感をいまでも忘れていないのだから、それこそが何よりも信用できる根拠なのだが、とにかく具体的なことが全然憶えていない。

(引用:保坂和志『小説の誕生』)

 

 かつて読んだはずの小説を、まったく憶えていなかった事への驚きについて、小説家の保坂和志氏がこのように語っている。小島信夫によって書かれたふたつの小説に対する《高揚感》を信頼しつつ、さらに、別の文章においては、「居ても立ってもいられない気持ち」になったのだとすら書いていながらも、しかし保坂は、このふたつの小説の内容については、《何も憶えていない!》と言うのである。

 読者としては、「憶えていない」という言葉が、190文字の文章のあいだで三回も書かれていることに驚いたりもするのだが、『繻子の靴』の上演について言えば、私は「何も憶えていない!」わけではない。多くのことが見逃されていたとはいえ、例えば「二日目」終盤の「二重の影」の一幕で、上下三段に組まれたひな壇型のスクリーンの前を、一人が下手側から、もう一人が上手側から、それぞれゆっくりと中央に向かい歩いていくシーンなどは、映像を目に浮かべるように、思い出すことも出来るのだ。

 

 そのシーンに現れるのは、新大陸の制覇を目指すロドリッグと、その彼に愛されながらしかし夫を持つ身であるプルエーズの二人である。ロドリッグはかつて、嵐に巻き込まれた後に漂着した海岸で、そのプルエーズに恋心を抱いたのだが、彼女にはすでに夫がおり、それでも叶わぬ恋を求めながら、しかし何度もすれ違ってしまう。そして、プルエーズもまたロドリックへと、駆け落ちを提案する手紙を書いたりもするのだが、救いを求める彼女の声もまた、ロドリッグへは伝わらない。『繻子の靴』の大筋は、偶然に出会いそして結ばれるべきはずだった二人が、様々な出来事に翻弄されながら、ついに報われることのなかった愛の過程と、プルエーズの死と愛という絶望から開放されるロドリッグの姿が描かれるわけだが、そういった様々なすれ違いを続ける二人が、「二日目」の終盤、演出の渡邊氏によって「二重の影」という詩のような散文が語られている、二人を邪魔する人物などが一人も居ない無人の舞台上に現れる。

 

 二人はそれぞれ、一人が下手側から、もう一人が上手側から、それぞれゆっくりと中央に向かい、同じ速度で歩き続けている。しかし、二人の歩く地平は異なっていて、上下三段に組まれたひな壇型の舞台美術の、最上段をプルエーズが歩き、そして、最下段でロドリッグが歩いているため、愛し合うべきその男女は、しかし互いを見ることもなく、すれ違うために歩きつづけることになる。ただ、そんな二人の間にある、三段に組まれた内の中段の壁には、本来であればそんな場所に映るはずもない二人分の「影」が、その二人と同じようにゆっくりと歩いている。

 互いの存在に気が付かないままの、肉体を持った二人がすれ違うのをよそに、影は、同じ地平で互いに向かい合っている。その後、上下の二人が歩くのに合わせ、ゆったりとした歩みによって、少しずつ距離を縮めながら、やがて影は互いに出会い、そして、愛し合う男女がそうするように、ひとつの影として重なり合う。そこで見られるふたつの影は、舞台上にいる二人の影ではなく、そのシーンでナレーション的に語られていた通り、《永遠に朽ちることのない文書》としての《主なき影》ではあるのだが、それは、叶わぬ愛をすれ違わせ続けたふたりの、あり得たかもしれない別の結末として読むことも出来るだろう。

 

 その舞台上では、生身の「肉体」と、幻想としての「影」が、ひとつの場所で同時に表象されていた。それは、映画や文学では決して採用できない、演劇だけが可能な表現――たとえば、俳優自身と役の人物がひとつの身体に共存すること、つまり、「演じている具体的な人物」と、「虚構の中に描かれた想像的な人物」とが二重写しになることで、その身体が、「具体的かつ抽象的」な二重の存在を生きる、「演劇」の虚構的な身体性と同じように、その一幕では、「肉体」のすれ違いと、「影」の出会いという、それぞれに異なる表象が、しかしひとつの場面の中で、まったく演劇であるとしか言いようのない形で描かれていた。

 

 さて、今作ではその「影」のように、出演者たちの演技によって物語が進行する中で、三段組のスクリーンに、映像作家の高谷史郎氏の映像が、全編通して映される。そこでは、ある時は具体的な風景であり、ある時は抽象的なイメージであるといった、多様な種類の映像が映されたが、もちろんそれは、城なら城を、海なら海を映すことで、その風景を説明的に描写し、作品が描く「内容」を伝えるためのものではない。いわば、それらの映像は、パフォーマンスする舞台美術として、あるいは、場面の「内容」以上の、別のテキストを物語る「音調」として、この作品を満たすのである。

 

精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?

(引用:中井久夫日時計の影』)

 

 吉田城のプルースト翻訳について書いた短いエッセイで、中井久夫はこんなことを書いている。とはいえ、精神科医ではないとしても、ある言いよどみや逡巡が、語られている言葉の意味以上に何かを語っているのを聞いてしまう、ということ自体は、きっと誰しもに経験のあることだろう。

 テキストに書かれた言葉の内容より雄弁な声を観客は聞いている。というのは、あまりにも、平凡で、正当で、当たり前のことなのだが、そういう平凡なことはあまり話題にされないし、あまり関心も持たれない。とはいえ演劇は、あるいは「言葉の演劇」とは、そんな単純な言葉の振る舞いで人を魅了することが出来てしまう芸術なのである。

 

 だから、人の名前である以上に、本来であれば示される意味など何もない、「ロドリッグ」という固有名ですら、剣幸氏が客席へ向け、悲痛だとか張り裂けるようなとか、そんな比喩で語れるかもしれない叫び声で口にすることで、それは、ただ人の名前を呼んでいる、という以上に何かを伝えてしまうのだし、観客も、その声に、あてどない何かを感じてしまう。名前は別に、トピックスでもキャッチコピーでもなく、ごく普通に口にされる台詞のひとつでしかないけれど、にもかかわらず、その台詞が絶対に聞き逃されるべきではない、重要なトピックスであるかのように聞かれるためには、たとえば剣氏の声のような、豊かな「音調」が必要なわけだし、そんな「音調」への憧れは、古めかしい演劇観への回顧ではなく、例えば「地点語」と呼ばれるようなものや、あるいは「超現代口語演劇」と呼ばれるそれぞれに特異な文体の中で、いまも脈々と生きられているとも言えるだろう。

 

 そして、この『繻子の靴』の醍醐味は、あらゆる台詞をトピックスであるかのように聞かせてしまう、そんな「音調」の豊かさや強度にあったと思う。特別な「決め台詞」が持つ、意味深さや過剰な煽り、といったことへの関心ではなく、誰かの名前や、僅かな短い呟きなども含めた、上演のあいだに語られるすべての言葉を発している俳優たちの「声」が、抑揚や繰り返し、言いよどみや、にわかな雄弁など、言葉の「内容」以上のテクストを生成されていたと言えるだろう。

 また、その舞台上に集まっている「音調」の、あまりにも広い振り幅こそ、今作を他に類のない唯一無二の作品とした要因であると言える。映像作家でありダムタイプに所属する高谷史郎氏の多様な映像が三段の白いスクリーンで煌めく中、野村萬斎氏という狂言師による前口上が語られ、元宝塚歌劇団月組のトップスターである剣幸氏が作品の中心に据えられながら、能楽笛方、藤田六郎兵衛氏の能管が響き、原摩利彦の音楽が上演の端々で聞こえている。それらの音や声に、SPAC所属の俳優陣や、京都造形大の卒業生であり渡邊氏の授業を受けていた若い俳優などの声が重なっていく、様々に異なる「音調」の重層的な響きは、なかなか他所では実現出来ない特異なものであるはずだ。

 

 しかし、である。もうひとつ重要で、思い出すべき事柄とは、そこで語られている言葉が、渡邊守章、という翻訳家によって書かれた言葉だということである。

 

 渡邊氏の言葉について過去の作品を例に出すと、ジャン・ジュネの『女中たち』を翻訳した渡邊氏は、「菩提樹花」と訳される一文を、独特な「音調」の日本語へと書き換えている。別の翻訳者による場合では、それは原作に準じ、菩提樹を「チユール」としてまず翻訳し、それが訛りのある発話で語られていたという当時の上演記録から「チヨール」という発音へと訳しているのだが、渡邊氏の『女中たち』においては、それを、日本語読みで「ボダイジュカ」と読むことにし、さらに、上演記録にある訛りの指定への対応として、それは「ボダージュカ」、ないしは「ボダアァジュカ」という、日常的に聞かれることのない、新しい日本語による翻訳によって上演をするのである。もちろんそれは一聞して、何かはっきりとわからない言葉ではある。しかし、耳馴染みのないその言葉が作中で何度も口にされ、その度に、意味を表すという言葉の機能に亀裂が入り、その意味よりも音自体が優位に立つことで、言葉の流れに独特な拍子や旋律が造られる。今作の『繻子の靴』においてであれば、「足下」という一語は、「ソッカ」という聞き馴染みのない読み方によって語られていたようである。

 もしくは、剣氏の語るこんな台詞を引用してもいいだろう。「三日目」の終盤、ついにロドリックと出会ったプルエーズが、私自身が歓喜であり、それを信じろと強い口調で語るシーンで、渡邉氏が翻訳した言葉は、前半の雄大で堂々とした語りから、文節として成立しない混乱した一種間抜けな繰り返しへと、急激な振り切られ方で落差をつける。

 その一連の演説において、ほぼ最後となるこの言葉たちは、美辞麗句などで飾りたてられることではなく、執拗な混乱した繰り返しという生々しい方法によって、その切実さを描く。

 

わたしを、あなたは愛するのをやめてしまう、わたしが無償のものでなくなったら!

信じる者に、約束などは要りません。

なぜ、信じないのです、この歓喜の言葉を、すぐにでもこの歓喜の言葉を求めようとはしないで別のものを求める、わたしの今ここで生きている存在が、今すぐあなたに聞かせようという歓喜の言葉なのです、どのような約束でもない、わたしなのです!

わたしなのです、ロドリック!

わたしこそ、わたしこそ、ロドリック、わたしこそ、あなたの歓喜! わたしこそ、わたしこそ、わたしこそが、ロドリック、あなたの歓喜なのです!

(引用:ポール・クローデル『繻子の靴』渡邊守章訳)

 

 様々にジャンルの違う出演者によって台詞が発された今作の、言葉の「音調」の自由さを支え、あるいはその豊かさをさらに加速させるのは、「声」であることに向けられた渡邊氏の翻訳であり、その言葉は、そもそもから「内容」への関心と同じか、あるいはそれ以上に、「音調」への強い関心によって書かれていたのだと思う。

 また、そんな独特な翻訳について、《たとえば、ラシーヌ詩句を発することが出来る身体を、日本語と日本人で、いかにして造るのか》と、かつて渡邊氏がそう書いていたことを思い出せば、その一風変わった翻訳がしかしまったく正当な理由によるものだったと頷ける。《ラシーヌ詩句を発することが出来る身体》についての問題と同様に、クローデルの詩句を発するための身体や声を、いかに造り得るかもまた、ひとつの大きな問題であり、そして、それらの詩句を日本人が発するための「身体」を「造る」ためにも、渡邊氏は、まず、日本語で発されるために必要な、言葉そのものの「文体」という、別の「体」から造り始めていたのではないか。

 

 だからそれは、奇をてらった特殊な「トピックス」などではなく、日本人による上演のための「音調」を得るために必要な「文体」だったのではあるが、そんな、新たに造られた日本語によって語られる、日本語で上演された『繻子の靴』においては、言葉だけでなく俳優らの「身体」もまた、その言葉を上演するための独特な方法を採用していた。

 《神は、曲がりくねった線で、真っ直ぐに書く》というのは、今作の紹介文でも引用されたポルトガルの諺であるが、今作が採用した身体性というのは、この一文のように(あるいは、ひとつの舞台にあらゆる「音調」がひしめき合っていたのと同じように)、多くの身体性を取り込みながら、多方向への逸脱を繰り返す、重層的で曲がりくねった身体の線として描かれたのである。

 

 今作は、西洋型演劇のように演じられる身振りが上演の中心に据えられながら、「月」を演ずる武田暁氏の舞の型ような一連の動きや、「黒人娘」の飛んだり跳ねたりする道化的でいかにも過剰な演技、あるいは、ドン・バルタザールを演ずる小田豊氏が果物の中に頭を突っ込むコントのようなコミカルな死に様など、《古今東西の演劇伝統を自由に舞台に取り込み、華やかな作品に仕上げて》いたとも語られた、様々な演技、あるいは渡邊氏の言うところの、「構え」が取り込まれていた。もちろん、西洋や東洋なども問わず、様々な「構え」へ逸脱し続ける型や身振りの多様さは、観客が見慣れた演劇らしい身体性から、専門家でない筆者にとってはそれが何であるか名指すことの出来ない伝統演劇のような仕草などへも向かうのだから、その全てが何であったかを、見逃さずに見ることは難しい。

 

 ただ、わたしたちの全員が、渡邊氏のような「知の巨人」でなく、古今東西の様々な歴史を見渡したりは出来ないまま、ある仕草なりを支えている歴史の背景などをすべて知ることが出来ないとしても、しかし今作の演出が、知っているものも知らないものも含め、渡邊氏の演劇的教養の中から選択された、多国籍な歴史と技術が大盤振る舞いされている、そんな「贅沢」な演出であったことは疑いのないことではある。そして、あるテキストをどのような演出によって上演するかという、演出家にとって一大事であるその自由さに対し、歴史の中で発見された多様で雑多な身体性を舞台の上で結び合わせる「引用の織物」として(あるいは、渡邊氏の言葉を借りれば、「キマイラ的」な演出として)、今作は、『繻子の靴』という一本に繋がる物語を《真っ直ぐに書く》ために、渡邊氏だけが描くことの出来る、その大きさすら計り知れない広く複雑で思いがけない《曲がりくねった線》の筆跡に、ただただ圧倒されてしまう、唯一で特別な上演であった。

 

 あるいは、過去の著作において、渡邊氏はこのようなことを書いている。

 

演劇は、近代的自我というような幻想的統一体を提供してくれるから私達の思考の〈劇場〉となるのではない。そうではなくて、まさにそのような統一体の崩壊・解体の地平で、演劇は、一集団の〈影〉をも捉えることのできるあれら人間の顔立ちをした虚像達が、実は由来を異にする複数の言語態の、時としては無関係とも思われる寄せ集めによって成立していることの、最もあからさまな証言であり、しかもその証言を生き、見せる場が、生き身の人間の身体的現実を分断しつつそこにたち現れる〈身体の虚構性〉にほかならないからなのである。劇場もまた、このような視座に立ってこそ、知の変革に見合った〈劇場〉たり得るだろう。

(引用:渡邊守章『芝居鉛筆書き』)

 

 「幻想的統一体」ではなく、「統一性の崩壊」の地平で、「由来を異にする複数の言語態」の「無関係とも思われる寄せ集め」を「生き、見せる場」という視座こそ、「知の変革に見合った〈劇場〉」と語られているそれは、今作においてはっきりと実現されていたのである。

 そして、ひとつの「声」や、ひとつの「体」へ統一されない縦横無尽に曲がった直線が、その曲がりくねる筆跡の途中で、観客からは多くのものが見逃されていたのだとしても、しかし様々な空間や時間を経由することで、多くのイメージが寄せ集められる、そんな、雑多な言葉やイメージが、絡み合いながら思いがけない衝突をしてしまうことへの驚きや感嘆こそ、今作を見る喜びであり、あるいは、そんなイメージのあえかな衝突とは、文学や映画や美術など、あらゆる芸術を見ることの、根本的な喜びのひとつであるとも言えるかもしれない。

 

 

 

 

 ここからは余談だが、ちなみにこの「虚構の身体」や「知の変革に見合った劇場」などという言葉は、現在それほど多くの関心が持たれていないのだと思う。

 ただ、わたしたちはいずれ、この問題に再び立ち戻ることになるだろう。多くの公共劇場では、いわゆる「社会包摂事業」と呼べるような施策を打ち出し、なかば画一的とも言えるような事業を各劇場が進められている。その主流としては、福祉としてのシニア層企画、教育としての子供向け企画、産業・観光としての地域アート的企画などといった、多くの「有用」な事業である。

 そこで劇場は、共生のための、教育のための、居場所のための場所であるといった、「幻想的統一体」を練り上げようと躍起になっているとも言えるが、そこでわたしたちは、たとえば藤田直哉氏によって、『前衛のゾンビたち』の中で語られた、国策の一環としての「地域活性化」に奉仕するような地域アートの傾向へ向け、「そんなに簡単に、有用なっていいのか」と突きつけられた問題提起を思い出しても良いはずである。そして同時に、演劇を支える劇場もまた、文化庁が推薦する「社会包摂」の正しさに寄りかかりながら、マネジメントを続けることで「有用」なものや「良いおこない」を目指す指針が、「知の変革」を生き、そして見せる場でもあるはずの「劇場」の姿を忘れさせているということも、思い出さなければならないはずだ。

 

 それに、そもそも劇場は昔から、そのような「良いおこない」の場所だったのだろうか? 《事実、この時期、つまり十七世紀の三〇年代までの劇場は、多くの評判記や証言が一致して語っているように、場末のちんぴらやごろつきの蛸集する〈悪場所〉であって、その意味では大衆のアナーキーな活力の醸造庫の一つでもあった》と渡邊氏が、『渡邊守章評論集 越境する伝統』の中で語っているように、たかだか数百年前までは、劇場はごろつきの集まる、悪場所、だったのである。

 とはいえ、21世紀の劇場が17世紀の劇場を真似る必要などはもちろん無いし、ごろつきばかりが集まっていても治安は悪くなってしまうし、それに、劇場が誰しもにとって開かれている状態は確かに正しく思えるので、ごろつきのような人たちでなくとも、特定の誰かによって占領されるという事は避けなければならないのである。

 

 しかし同時に、アナーキーな活力というか、得体の知れない何者かの訪れによってそれが何なのか考えながら是非を問わざる得なくなるような「知の変革」や、社会的常識としては到底納得できないものだがやけに魅力的であることによって規範の存在に疑いをもたせるような「知の変革」の体験など、要するに、わたしたちの生きる日々の意味すら変えてしまうような出来事との遭遇に、期待しながら待ち焦がれたり、欲望したりすることが無いのなら、わたしたちは、劇場に対する憧れなど、すぐに忘れてしまうのではないか。しかし不安は、そんな憧れを忘れることではない。危惧すべき問題は、一義的で「有用」な出来事へ向けた統一体を造る過程においては、共同体の創造と維持へ奉仕するための作品にしか価値が見いだせなくなることの不自由な退屈さである。その意味で、《統一体の崩壊・解体の地平》や《アナーキーな活力》についての言葉は、かつて日本で語られながら、しかし今では口ごもられてしまう、「劇場」のある機能についてを端的に語る言葉であり、わたしたちには、その地平で語られる言葉の意味を、立ち返りながら考える必要があるだろう。

 

 今回の上演が実現されるにあたっては、大学の「劇場」を活用し、数年にまたがった研究の過程があったこと、さらに、今作が上演された「劇場」であるSPACに所属している俳優を含めた座組が、その劇場の二階にある、ほぼ実寸の稽古場の中で稽古を続けられたことも、その大きな要因だと言える。作品をつくるための、十分な時間と場所、それに関わる多くの人が無理なく揃うという環境は、本来であれば当然のように実現されるべきものであるが、実際はあまり上手くいかない。そう考えると、出演者もスタッフの座組も、あまりに「贅沢」な今作において、しかし、もしかしたら何よりその創造環境こそが、今作における一番の「贅沢」だったのかもしれない。

 

 渡邊氏による翻訳のクローデルの台詞を、多様で巧みな出演者が語り、その演出には、渡邊氏の演劇的教養が多分に詰め込まれていたという今作は、おそらく二度と無いような贅沢な上演ではあった。しかし、だからといって、こんな企画が毎週末にどこかで行われたら良いのになぁ、と呟くのは、いくらなんでも、少し贅沢が過ぎるような要望ではあるだろう。

 ただ、せめて、作品創造の環境としては、劇場でじっくりと作品創作に打ち込める、というただそれだけの「贅沢」くらい、一刻も早くわたしたちにとって「普通」になればとは思う。渡邊氏が『虚構の身体』の中で翻訳していたのだが、マラルメはかつて、《すべては、〈美学〉と〈経済学〉に要約される》と書いており、それについての多くの誤読はあるかもしれないが、しかし、現代の舞台芸術の創造についても、やはり《美学》と同じくらい、《経済学》は重要な問題なのである。

 

 そして、映画監督のペドロ・コスタは、そんな《経済学》を語る上で中心に置かれるそれこそが、映画なのだと語っている。

 

いただいた問いに答えるにあたって、その前提となる私の視点をまず簡単に述べておきたいと思います。映画とはお金だ、ということです。人にお金を払わなくてはならない、金銭関係がその土台にある。お金にまつわるありとあらゆる力が蠢く、汚らわしい仕事であることを承知しなければならないのです。映画は他のどの芸術よりも不正に満ちあふれているのではないかと私は感じています。プロデューサーからの圧力、映画制作を取り巻く過酷な状況によって深く傷つき、道半ばで身を持ち崩してしまった監督たちを何人も知っています。そうした悲惨な事態が、すべての芸術のなかでも映画において最も多くみられるのではないでしょうか。[中略]

これまで述べてきたことを確認しておきましょう。ひとつ目は、映画が生み出すものとは、決して芸術的なものに由来するのではないということ。ふたつ目は、私がつねに気にかけていることでもありますが、映画を作る際にはあらゆることを現実的な問題として想定し、考え抜かなければならないということです。撮影のために必要な車輌や三脚、あるいはサンドイッチの包み紙がちゃんと揃っているか、どれだけのお金が手元に残っているのだろうか……通常、プロダクションと呼ばれる作業の方が、創造的と思われる活動より誰かに大きな比重を占めて、撮影の現場で私たちの前に立ちはだかってくるのです。

(引用:ペドロ・コスタペドロ・コスタ映画論講義 歩く、見る、待つ』)

 

 もちろん、こういった現実的な話は、演劇の現場でも変わらず、そこかしこに溢れているだろう。例えば演劇において「お金にまつわるありとあらゆる」ことについて考える(ということは、助成金、謝礼、観客動員などといった、それぞれ別の仕事として、ひとつの課題に取り組むということであるが)制作者という立場であれば、仕事の成果や専門性が見えづらく、ゆえにお金も払いづらいまま、なんとなく仕事として安い相場が固定され、だれもそれだけで食べていけない、というのが一応の雰囲気になっていて、「制作者の地位向上」といった施策も、形を変えながら行われ続けているのではあるが、結局、多くの制作者が精神を病んで現場から離れてしまったりする状況については、誰もがそれを知りながらしかし誰も公の言葉にしないから、狭い世界で完結してしまうのだし、だから巷では相も変わらず「芸術的なもの」を愛でたり、「有用」なものを慈しむような話がされ続けていて、又聞きなので名前は伏せるし、もう今作となんの関係もない話だが、とある年配の女性ダンサーが、「制作者は鬱になってからが一人前」などという、古臭い就労精神を前提にした身勝手な事を言っていたという噂も聞くので、やっぱり、《美学》だけではない、《経済学》の視点について、ごく普通に話し合われなければならないのだと思うのである。なんだか最後に、作品とはほぼ無関係の話をしてしまった気もする。

 

 

 

 上演後しばらくして、放送大学の映像を見ていたら、クローデルについて渡邊氏が、「クローデルは現場的な人だったから、使えると思ったら何でも作品に取り込んでしまう」と発言していた。しかし、それを聞きながら、それって、渡邊先生のことではないか? と思ってしまった。

 

(2018年6月10日、静岡芸術劇場で観劇)

 

 

 

【作品クレジット】

 

『繻子の靴』 四日間のスペイン芝居

日時:6月9日・10日 場所:静岡芸術劇場

 

作: ポール・クローデル『繻子の靴』(岩波文庫

翻訳・構成・演出: 渡邊守章

 

出演: 剣幸、吉見一豊、石井英明、阿部一徳(SPAC)、小田豊、豊富満、瑞木健太郎、牧山祐大(SPAC)、吉植荘一郎(SPAC)、若宮羊市(SPAC)、片山将磨、山本善之、武田暁、岩澤侑生子、岩﨑小枝子、鶴坂奈央、川谷亜縫紗、藤田六郎兵衛(能管)、野村萬斎(映像出演)

映像・美術:高谷史郎 照明:服部基 音楽:原摩利彦 衣装:萩野緑 演出助手:鹿島将介、岩﨑小枝子 映像プログラミング:濱哲史、白木良、古舘健 技術監督:小坂部恵次 舞台監督:夏目雅也、大鹿展明 小道具・演出部:相澤伶美 制作(京都):川原美保(京都造形芸術大学舞台芸術研究センター)、堂岡佐和子 初演: 2016年12月 京都芸術劇場 春秋座