劇評 18/19+

劇評のブログです

ベルリン・シャウビューネ『民衆の敵 An Enemy of the People』

 

 イプセンのテクストを用いて「経済」があらゆるものを押し流すという現代の状況にアプローチすること。ふじのくに せかい演劇祭2018の公式プログラムとして上演されたベルリン・シャウビューネ劇場『民衆の敵』は、そうしたねらいをもつ作品だった。もちろん、ストリートアートを彷彿とさせるセノグラフィーやロック・ミュージックの音響効果などを背景に、カジュアルで細やかな俳優の演技によって原作のドラマを丹念に立ち上げていくこの舞台は、中心的な上演意図に定位するだけでは語り尽くし難い幅をもっている。ともあれ、多彩な舞台の構成要素やそれらのアンサンブルが、多くの観客を融和的に引き込みうる充実を見せていたことを前提とした上で、ここでは演出・脚色のポイント、つまりトーマス・オスターマイアーが演出ノート(当日パンフレット「劇場文化」掲載)のなかで、この作品の要所であると示唆している場面の周辺に留まることにしたい。


 オスターマイアーが「私たちの翻案では、一カ所だけ、イプセンのテクストをより先鋭的なものにした箇所がある」と記しているのは原作の第四幕にあたる部分。とある海岸の田舎町に持ち上がった環境汚染をめぐって、公害告発の意志を貫こうとする医師・ストックマンと、町の経済を守ろうとする市議(原作では市長)やマスコミとの対立がピークに達する演説集会の場面である。ストックマンの演説が高潮するあたりでは、イプセンのことばに、フランスの匿名思想集団が2007年に発行したラディカルな資本主義体制批判のマニフェスト(不可視委員会『来たるべき蜂起(L' Insurrection qui vient)』)の一部が混入する。やがて観客席に照明が入り、観客は集会参加者として目前で繰り広げられてきた出来事について意見を述べるように要請される。それまでオーソドックスなリアリズム劇上演のあり方と地続きのところに作品の基調が求められてきただけに、この脚色上の処理と「観客参加」の演出は、ある程度まで鮮明な転調をもたらした、とひとまずはいえるだろう。


 引用テクストの導入の点でいえば、開演前と幕間に下りる紗のスクリーンに映る字幕というかたちで、すでに観客はそれに接する機会を与えられている。上演で提示されたメッセージは『来たるべき蜂起』の文言に若干手を入れたものであるらしいが、同書の「経済が危機にあるのではなく、経済そのものが危機である」という認識におよそつりあうものだった。その意味では、演説集会においてストックマンが露わにする社会に対する激しい憤りが、ストーリーに含まれる経済の危機(公害告発によりもたらされる町の財政の破綻)とともに、二〇世紀後半以降の西洋型社会の変貌、つまり「大きな物語」を背負った「政治」に代わり世界を動かす「経済」への直面という危機を背景とすることは、くりかえし予告されていることになる。だが、こうした多義性を帯びた〈経済の危機〉やそこに生じる軋轢は、理路や図式を超えた上演体験の実質として、どれほど観客に働きかけたのだろうか。オスターマイアーは「演劇は私たちの確信を揺さぶり、私たちの信念を挑発するものにもなりうる」と記している。そのとおりだと思う。ただし、はじめに少し触れかけたように、舞台のアンサンブルと観客の視線の距離との快い調和関係に満ちたこの作品の場合、観客がその安定性に半ばつなぎとめられながら、揺さぶられ、挑発されるというのが実際だったように思われる。


 もちろん「観客参加」に及んで作品の受容環境は変わった。プリセットのきかない観客を取り込みながら展開されるその場面に、上演の基調とは相容れない声が響くことも起こりえただろう(ちなみに、わたしが立ち会った「観客参加」の場面では、作品は公害を主題とするドラマとして受けとられ、「参加」した観客がそこへ人道的・教訓的な意見を寄せることがほとんどであり、もっぱら劇場の時間は「政治的な正しさ」の再認に費やされたのであるが……)。そもそもドラマの展開部分においても同化的な一体感の崩れる契機がなかったわけではないのだが、この作品がねらいとする対象は以上を考慮に入れても、なお補いきれない厄介な性質を帯びているのではないか。たとえば「経済」への順応によって、われわれが「数世代にわたって規律を叩き込まれ、骨抜きにされ挙句、当然のごとく生産的で消費することに喜びを覚える主体へと作り変えられてしまった」(『来たるべき蜂起』)とすれば、そして、そうしたはかり知れない対象を劇場体験として捉え返す作業が、なんらかのかたちでドラマへの順応なり、当然のごとくそれを消費することに喜びを覚える「主体」なりを問い直すことを要件としているとすれば――。


 このような疑問を抱えながら、観劇のあと、原作戯曲に目を通していると、上演ではカットされている台詞に目が留まった。そのいくつかは原作の第三幕にある、医師の娘で教師をしているペトラ(この人物は上演には出てこないが、その台詞の一部はストックマンの妻の台詞に統合されるかたちで生かされている)が新聞社から依頼をうけた小説の翻訳を辞退するというエピソードに関連している。たとえば、なぜ進歩的な紙面にそぐわない旧態依然の小説を読者に読ませようとするのか、というペトラの質問に対する、編集者・ホヴスタの次の答えなども、その一つである。「自由で進歩的な方面に読者を引っ張って行きたければ、読者をびくびくさせて、逃がすわけにいかんのですよ。ところが、こういう面白くて、危険性のないものが新聞の小説欄に載っていると、政治面の記事も、ずっと読者には受け入れやすくなるんでしてね、――安心感があるんですよ」。ここに大衆操作や政治と娯楽の二元論をめぐる風刺を読むことは簡単である。それに比べて、演劇という媒体が自己自身に差し戻されるものとしてこの台詞を担い、かつこれと自覚的な距離をとることは、それほど簡単ではない。台詞中の政治欄と小説欄、そして、現代社会の相のもとで原作を「先鋭的」に加工した場面とテクストを見事に「面白く」形象化したその他の場面の関係の並行性によって、改めてそうした実践上の困難のことが思われた(いうまでもなく紙面と舞台のあり方は同列に扱われるべきものではない。ここでは両者の違いを違いとして承知した上で、そこになおも認められる並行性を問題としている)。もっとも裏を返せば、オスターマイアーの演出が全体としてイプセン戯曲の風刺喜劇的な側面をあれほど巧みに活かしていなければ、上演では省かれている材料にちなむこうした考えや心情が浮かび上がることさえなかったのかもしれない。(2018年4月29日、静岡芸術劇場で観劇)

 


〔付記〕
本文中、関連テクストについては、原千代海訳「人民の敵」(『イプセン戯曲全集』第4巻、未来社、1989年)、不可視委員会『来たるべき蜂起』(彩流社、2010年)から引用させていただきました。

 

 

〔作品クレジット〕
ふじのくに せかい演劇祭2018 World Theatre Festival Shizuoka 2018
民衆の敵 An Enemy of the People』
日時:2018年4月29日-30日  場所:静岡芸術劇場
演出:トーマス・オスターマイアー 作:ヘンリック・イプセン
出演:クリストフ・ガヴェンダ コンラート・ジンガー エファ・メクバッハ レナート・シュッフ ダーヴィト・ルーラント モーリッツ・ゴットヴァルト トーマス・バーディンク
スタッフ: 舞台美術:ヤン・パッペルバウム 衣裳:ニナ・ヴェッツェル 音楽:マルテ・ベッケンバッハ ダニエル・フライターク ドラマトゥルク:フロリアン・ボルヒマイアー 照明:エーリッヒ・シュナイダー 壁画:カタリーナ・ツィームケ 製作:ベルリン・シャウビューネ

クロード・レジ『夢と錯乱』

 

 

 《フランス演劇界において、もっとも正統的かつ過激な演出家であるクロード・レジ》が演出する《最後の作品》として、《オーストリアの夭折の詩人》であるゲオルク・トラークルの《自伝的エクリチュール》を使用した『夢と錯乱』は、ふじのくに⇔せかい演劇祭2018の公式プログラムとして、静岡県舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」で上演され、その後に、京都芸術劇場 春秋座を廻った演劇作品であるが、いわば今作のプレビューとして、WEB雑誌『REAL KYOTO』にて掲載された『インタビュー:渡邊守章「クロード・レジについて」』では、その演出家の《類を見ないとしか言いようがない》特異性が、表象不可能性、沈黙、括弧付きの禁欲性、などといった言葉で語られ、実際の上演もまた、難解、と言えるはずの作品ではあったのだけれど、しかし、多くの劇評が、様々な書き手によって公開された。


 《悪夢的な世界に放り込まれたままの観客》の前で《このテクストを語る男性が演じていたのは、トラークルの「意識」そのものである》と語る批評があり、他にも、《闇と沈黙。体内への感覚が鋭敏になり、無意識に唾を呑みこんでいること、その音がこんなにも大きいことに戦慄する》ことになるその作品の演出家が、《『室内』と『夢と錯乱』とで、生の周りに漂う死の気配と、死に堕ち込んでいく生の躍動とを演劇化したのだ》といった批評、あるいは《陽炎のようにおぼろげなひとがたが亡霊のように舞台上を彷徨う。スローモーションで引き伸ばされた痙攣。やがて、夜よりも暗い深淵のなかから、ざらついた質感を帯び、嘆きと憎悪と嘲笑が入り混じった声が発せられる》作品が《繊細にコントロールされた照明と音響、俳優の身体的現前と声の魅力、そして「字幕」の操作も含めた演出設計が、「朗読」から本作を「演劇」として分かつ》などなど、それぞれ異なる視点から多くの言葉が語られたが、そこで共通しているのは、その『夢と錯乱』という作品が、良かった、という立ち位置をなんとなく取っていることであり、また、三人のうち二人の書き手に共通する態度としては、一方では「意識」、そして一方は「生の躍動」といった言葉で、その作品が何を表現していたのか、という事について言及している点である。
 そこで思い出すのは、庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』や、村上春樹羊をめぐる冒険』、あるいはキアヌ・リーブス主演の『マトリックス』などについて、「ここにはこんな意味が隠されている」とか「これはアレについての隠喩なのだ」というように、アニメや文学や映画を見たり読んだりするというのは、その作品の、「隠された意味」を見極めることである、と、多くの人が錯覚していた時期があったということで、実際、『謎解き決定版!エヴァンゲリオンの超真相』や『エヴァンゲリオンの遺伝子 99.89%』、あるいは『謎とき村上春樹』、『村上春樹を読むヒント』、『マトリックス完全分析』、『マトリックス完全制覇!―今さら人に聞けない「マトリックス」の謎Q&A100連発』などなど、いかにもなタイトルの書籍も沢山販売されていた。すでに誰かが指摘しているのかもしれないが、とはいえ、エクスクラメーションマークの安っぽさなど、今にしてみるとなかなか味わい深い。


 こういった「謎解き」を目指す文章を読んで思い出すのは、コンビニに売っている、ちょっとお高いハンバーグなどの、高給チルド食品のことであり、どこにでも売っていて、どこかで食べた味だけど、しかしなんとなく高級感は保っている、という言い方は嫌味かもしれないが、多くの批評を集積し村上春樹を「ゲームセンター」であると論じた斎藤美奈子による『文壇アイドル論』から、春樹について書かれた批評を少しお借りして例に出すと、《村上春樹の「高い壁」と「やみくろ」は、ドゥルーズ=ガタリの思想と奇妙な符号を示していると言うべきではないか? 「高い壁」に囲まれた「世界の終わり」の「街」は記号の世界、ゲームの空間(「大佐」のチェスを見よ)、不思議なまでに実体を欠いた(「影」の無い)表層の空間ではなかっただろうか?》、といったように、《ドゥルーズ=ガタリの思想》、《記号の世界》、《奇妙な符号》、などといった、いかにもな引用や言い回しによって村上春樹を料理していて、なんとなく、そのごちゃごちゃとした味わいから高級な風味を嗅ぐこともできるがのだが、とはいえ、ちょっと聞き齧るだけで、なんだか胃もたれしそうである。
 ほかにも、《村上春樹がこだわりつづけた「羊」とは実は、あの一九六〇年代末期から七〇年代初頭にかけて、当時の若い世代をより非現実の彼岸へと押しやった「革命思想」「自己否定」という「観念」ではないだろうか》、といった文章もまた、なかなかいい味を出している。なにせ、「実は」である。ほんとかよ、という感じだが、この「実は」こそ、やはり謎解きの醍醐味だ。
 それに、《村上春樹が「イエスタデイ」でも「ペニーレイン」でもなく、ビートルズの曲の中から唯一『ノルウェイの森』を選んだのは、そこに「森」という3本の「木」を組み合わせた漢字が用いられていたためであった》などという、確かめようがないじゃないか、といったことが書かれた文章に比べれば、「観念」や「表層の空間」のほうが、吟味の余地が残されている分、飲み込みやすい文章ではあるだろう。こうやって読んでいると、村上春樹が嫌厭されるのは、この人たちのせいではないかと勘ぐりたくなる。


 眼の前にある出来事よりも、その奥にある「隠し味」を暴くことが、その時代の、良い読者、として称賛されていたのかもしれない。また、それに味をしめた一部の書き手や出版社が、「謎解き」文化をさらに促進したということもあるだろうが、とはいえ、「隠された意味」を暴くことこそ、作品を観ることの楽しみであるという雰囲気は、「松本人志の笑いや映画は俺が一番わかっている」「いや、俺のほうが松本を理解している」といった、忠誠心と恋愛妄想のオードブルになってしまうので、やはり、胃もたれしてしまうのだし、傾向として「謎解き」は、《ドゥルーズ》とか《非現実の彼岸》とか《革命思想》などといった、なんとなく高級な食材が選ばれることが多いので、それもまた、胃もたれの原因であるだろう。
 とはいえ、忘れてはいけないのが、とはいえこの人たちは間違いなく、良くも悪くも「美食家」なのだ。文学や映画、演劇、音楽、思想や美術などといった様々なものを味わい尽くし、難解な言葉を反芻しては自分の血肉としてきたのである。


 しかし突如として目の前に、なんだかよくわからないような薄味の料理が現れる。皆はそれを、なんだかよくわからない、と口にしている。そこで「美食家」もそれを食べてみることにする。そして、あらゆる料理を食べ尽くした彼らだけが、その薄味の料理の中に、とんでもない旨味や深い味わいが隠されていることを発見してしまう。いろんなお店に「通」い慣れた、「通」な彼らだけの悦びだ。
 ただ、そんな彼らが自宅の台所に立ち、その旨さの秘密を自分の方法で「料理してやろう」と思ってしまうと大変である。食べるプロは作るプロではない。キャベツの千切りが好きだとしても、自分がそれを綺麗に切れるわけではないのだ。それで結局、あの店で食べた高級料理の再現=代理=表象は、悪くはないが旨くもない、なんとなく高級っぽいのが逆に安っぽさを演出するだけの、気取った料理が食卓に並ぶことになる。まあ、食卓に並ぶだけなら何も問題がないのだが、しかし、彼らからの招待状がくると、うろ覚えの料理を食べさせられることになってしまうから大変なのだ。なんだか『茶の湯』でも始まりそうだが、この内容なら『薬缶』のほうが近いだろうか。なんでも知ってるご隠居さんは、マックロだからマグロという、こっちに来るからコチという、薬缶は矢がカーンと当たって、などといった頓珍漢な返事をしながら観客を笑わせるわけだが、笑えるだけでマシである。「美食家」たちのふるまい料理は、講釈が多く食べた気がしない。


 「謎解き」はいつも、「この作品の凄さはここだ!」という称賛ではあるのだが、そこにはいつも「それを発見したオレも凄いぜ!」という別の称賛も、一緒に匂い立つわけである。それは「美食家」だから出来ることだし、たしかにすごいのだが、とはいえ、バニラとクリームくらい甘い称賛をおんなじ鍋で煮詰めるような、甘ったるい言葉だけでは口がもったりしてしまう。そんなときは、《人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである》と書いた蓮實重彦の言葉や、《人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか?》と語った浅田彰らの、いかにも辛口な一言をつまみ食いして、苦汁を舐めてみたくもなる。バニラの甘さが際立つのは、同じく甘いクリーム、ではなく、やはりカカオやコーヒーの苦味だろう。
 何かを饒舌に語ることとは、生起する何かから目をそらすことや沈黙を忘れることであると彼らは書いているのだが、警句にも似たそれらふたつの言葉が書かれてから、すでに長い年月が経った。そして、《どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ》てしまうことへの恐れなども、SNSを覗けばすぐわかる通りではあるが、すっかり、忘れられてしまったのである。
 そのくらい忘れっぽいので、レジが《到達できない境地に到達したい》という、明らかに矛盾した「ありえないこと」への挑戦を語っていたことや、《私が情熱を傾けているものが少なくとも二つあります。沈黙と遅延です》などと語っていた、そんな矛盾と沈黙の態度も今では忘れられてしまい、キチンとまとまった饒舌で、それを語りはじめてしまうのだ。

 


 WEBマガジン『artscape』には、高嶋慈氏執筆のレビューが掲載されている。そこでは、《夜よりも暗い深淵のなかから、ざらついた質感を帯び、嘆きと憎悪と嘲笑が入り混じった声が発せられる。厳格な父親、石のように無関心な母親、死の匂いが重く立ち込めた家、情欲と死への衝動が、破滅的で夢幻的なビジョンの断章として語られていく》今作の《最大のポイント》として、《俳優の発語と完全に同期しない「日本語字幕」の表示のタイムラグ》が挙げられ、《意味内容の理解よりも先に、空気を震わす物理的振動としての「声」が、怖れ/嘆き/破滅の予感/絶望/苦悶の喘ぎといった感情を皮膚感覚で体感させ、調子の狂った弦楽器のようなその声の物質的質感が、一つひとつの言葉に手触りと輪郭を与え血肉化する》のだと、その「ズレ」によって作られる効果が説明されているのだが、しかし、《はらわたから絞り出すような発語から数秒ほど遅れて表示される字幕の「ズレ」は、演出上の意図によるものだ》という本文中の断言が、本当かどうかは確かめようがない*1。もちろん、岡田利規演出の『地面と床』であれば、字幕を待つ、という俳優への指示が市販の戯曲にも書かれているのだから、明らかにそれが意図された「ズレ」だと言えるのだが、しかし、それでなくても字幕というのは、得てして「ズレ」てしまうものであるし、実際、同会場で少し前に上演された『ゴドーを待ちながら』でも、その字幕はなにかと遅れていたような気がしなくもない。
 同じく、WEBマガジン『REAL KYOTO』では、京都大学総合人間学部在籍の真部優子氏によって今作のレビューが掲載され、《まさに夢でも見ているかのように、現実味を欠いた感覚に陥る》今作の冒頭シーンなど、舞台上で起きた出来事が幾つか紹介されつつ、《作品の鑑賞か叶わなかった読者は、あまりに禁欲的で退屈な作品だと思われるかもしれない》という危惧すら感じさせてしまう作品ではあったものの、しかしこの作品は《絶対的な魅力》を持っているのだと真部氏は断言する。そして、《本作が他の追随を許さないほど優れた作品である理由が秘められているように思う》という、《舞台上の男性は誰なのか》という問いによってその批評的な視座を設けつつ、《トラークルの作品のほとんどに共通する特質》である、《詩人自身の体験が基になっていると考えられる部分が多いのに、三人称で語られていく》という「人称」についての考察を進めることで、《このテクストを語る男性が演じていたのは、トラークルの「意識」そのものである》と、真部氏はこの作品の、「秘密」を「解き明かす」。
 あるいは、ふじのくに⇔せかい演劇祭2018の劇評コンクールにおいて最優秀賞を受賞した朴建雄氏は、西谷修の著作、『夜の鼓動にふれる』を準拠先としつつ、この『夢と錯乱』が、《〈光〉の文明が覆い隠したこの〈夜〉を思わせる》作品であるのだと語り、《自分の輪郭が溶け合ってしまうまでに近く、かすかな気配しか感じられないほどに彼方の、夜に包まれる錯乱の経験。それは視覚で認識するための距離感ではありえない、そして無事ではいられない体験》としての「夜」をこの作品で体験する。そして、《レジの作品が表現するのは、〈昼〉の中で生きる我々が普段ふれることのない、「夜の鼓動」》であり、クロード・レジの過去作品についての言及も含めながら、《『室内』と『夢と錯乱』とで、生の周りに漂う死の気配と、死に堕ち込んでいく生の躍動とを演劇化したのだ》と、その上演の特出すべき「暗さ」から、レジの作品が何を表現するのかについて語っている。


 西谷修はその著作の中で、《英語でもフランス語でもドイツ語でも、「わかる、理解する」を表現するもっとも一般的な言い方は「見る」にあたる言葉で、これはラテン語でもギリシャ語でも同じ》であると書き、そして、《〈夜〉のなかでは、世界の輪郭は闇に沈み、明瞭なものは何もありません。そこでは距離をおいて見るという関係は成立せず、声や吹きかかる息や、肌の接触だけが、人を輪郭のない世界に開く》、のだと説明している。
 しかし、「夜」の世界には「明瞭」なものが何もなく、つまり何もかもが「見えづらい」景色であるというのなら、その「夜」の中で表現されたものが、観客席から「見」られたことで、これほど「明晰」な言葉によって、「明らか」にされて良いものなのかと思うわけである。もちろん、「わかる、理解する」を指す言葉は日本語においても、「見る」ことや、「明るさ」によって表されたりもするのだが、「明瞭」な言葉でその本質を「解き明かし」たり、その秘密を「白日の下」で「明るみに出す」「聡明」なやり方は、『謎とき村上春樹』にも似て、時に「闇雲」で「無闇」なものに見えてしまうわけである。
 それに、三人に共通する視点としても、たとえば高嶋氏が《ほとんど何も見えない深い闇から、人間のような形象がかろうじて浮かび上がる》と書き、真部氏なら、《いくら目を凝らしても、あまりの闇の深さに、すぐそこに存在しているはずの彼の姿をはっきり捉えることができない》と語り、朴氏であれば《闇に包まれてはいる》その舞台が《星のようにかすかな照明の光は闇の果てしなさを強調し》ているが、しかし《それは視覚で認識するための距離感ではありえない》、と書いている通り、特筆すべき事柄としてその作品の「暗さ」が説明されている。しかし、だからこそ、「暗い」舞台で行われる「見えづらい」その作品は、もう少し「わかりづらい、理解しがたい」ものとして、語られても良いのではないか。


 筋肉少女帯大槻ケンヂは、『サーチライト』という曲で、光によって世界の姿を「明るみに出す」詩人の振る舞いを自ら演じつつ歌っていた。探照灯のつもりになって世界の闇を照らそうとする、《最近なんだかマトモ》な詩人を、《サーチライトのつもりか》と揶揄するような歌なのだが、とはいえ、引用する対象としては、ドゥルーズ=ガタリより随分と無名なので、知らない人も多いかもしれない。
 大槻ケンヂが《俺の歌とペンがサーチライトになるんだ》とその詩人的な心情を歌っていた通り、確かに歌やペンは、暗がりに隠れた無意識を明るみに出したり、闇に隠れて働かれる悪事を暴いたり、暗く不安な未来を照らしたりすることもあるだろう。そして、ペンが光になるのなら、もちろんその「暗い」舞台も、ペンによって「明らか」なものになるのかもしれないが、とはいえ観客はあくまでも、ペンで明るく照らされたものでなく、暗いままの上演を、暗いまま、見たり聞いたりしていたのではなかっただろうか。
 ちなみにケンヂは、《俺みたいにはなるなよ》と、そのCDを手にした消費者に向け注意を促しながら上手に自分を守っている。なんとも白々しく小癪なやり方であるが、もちろん、この「白々」も、明るさについての比喩表現だ。ただ、「暗闇が白む」という表現が「嘘が見え透く」という意味で使われているのも、なんだか皮肉な気がするが、皮肉で書いているわけである。
 とはいえ、「詩人」にとっては有効かもしれないその警告は、この『夢と錯乱』を演出したクロード・レジという「演出家」には、とくに必要がないのかもしれない。


 それというのも、その京都芸術劇場 春秋座の上演において、上演作品が暗かった、というのはすでに何度も書いたのだけれど、実際は、開演前の客席ですら照明がほとんど灯されていないので、自分の足元も定かではない暗い中を観客は歩くことになり、そんな薄暗い通路をゆっくり進みながら、ひな壇に組まれた、かなり暗く見渡しづらい客席の中から、観客は、自分が座るべき空席を探さなければならない。レジは明るい未来どころか、観客の足元すら照らしてくれないのである。
 足元もおぼつかない観客たちがそれぞれに自らの席を見つけ、やがて会場は満席となり、そして開演の時間を迎えると、そもそもから、ほとんど灯っていないその客席へ向けた照明が、そろそろと、ゆっくりとした速度で暗転をはじめる。
 そして暗転はゆるやかに続き、客席の明かりがついに消えきり、上演が開始、しているはずなのだが、やがて下手から現れる俳優の姿を観客が発見しても、舞台上はさっきの客席以上に暗いので、人間の像が曖昧なまま漠然と動いているのをただ観客が眺めている、という時間が随分と長く続く。もちろん、男性はその後、トラークルによる聖書のモチーフも多い暗喩たっぷりの散文――たとえば《死にゆく彼らはパンをちぎっていた石になった血に濡れるパンを》など――を口にするのだが、それは、虚ろな迫力、というか、激しい空疎さとでも言うような、韻文を歌い上げる音楽のような調子の独白で人を心地よくするのでも、日常的な仕草の再現による自然な演技で些細な日常を描写するわけでもない、張り詰めているがしかしいわゆる「芝居じみた」技術に乏しい切れ切れの音調によって語られる。そして、それを口にする俳優の身振りは、その文章に現れる「妹」や「光」などといった言葉に、なんとなく対応しているかのように、腕を正面に伸ばしたり頭上へ手を翳してみたりという、抽象的な所作を切れ目なく一連の動作として続けるので、その発話と身振りだけでも、いわゆる「演劇」と言われて漠然と想像する、あの「芝居じみた」ものとは、ぜんぜん、違う種類の出来事が上演されていたと言える。


 しかし、私がもう少しウブな学生で、はじめて見たいわゆる前衛劇がこの『夢と錯乱』であれば、かなりの衝撃を受けてしまったかもしれないが、文化庁在外研修員としてパリで過ごした二年の間に、クロード・レジから大きな影響を受けたであろう三浦基が主宰する「地点」の作品も、すでに何度も見てしまっている観客の一人としては、その声が聴覚的には強い音律で聞こえてはいるのに、中断や言いよどみや沈黙や繰り返しによって、言葉のまとまりを外されてしまい、本来であればその単語が意味するはずだったものが聞こえてこない、そんな「聞こえる」と「聞こえない」の矛盾した言葉の振る舞いに、慣れ親しんでしまっているのだし、制作だったり研究補助だったりと曖昧な立場ではあるが、その影響を受けながら新たな作品を試行錯誤する演出家たちと共に生きている、要するに現代の京都演劇界(なんてものがあるのか知らないが)の末席で生きる一人の観客としては、たとえば、クロード・レジと同い年の「詩人」である田村隆一の詩(彼は自身の詩の中で、「ぼくは/見えない木/見えない鳥/見えない小動物/ぼくは/見えないリズムのことばかり考える」と、見えないもののことを考えるという宣言をしている)などを読んでいても、それがどこか「懐かしい前衛」のように感じてしまうのと同じく、自分たちが切羽詰まって生きている今との明らかな断絶を感じざるを得ないその作品が、どうしても、古き良き時代の憧憬として見えてしまうのも仕方がないとは思いながら、ちょっと前の世代にとってスターだった「あの人」を、一応は拝んでみるというような、虚しい寂しさや、気まずい気だるさも、当然ながら感じたわけである。
 とはいえ、いくらこれに共感してもらったとしても、そんな言葉は、居酒屋や喫茶店でのお喋りくらいでしか聞かれることはなく、腹に一物あったとしても、それなりに消化したあとで、良いことばかりが表に出されてしまうので、この気だるい気分についてどれほど支援者がいるかというのは、結局のところよくわからない。

 


 さて、ここからが、劇評である。
 おそらくは難解と言えるこの『夢と錯乱』という作品について思い出してみると、普段、多くの人が「演劇」と呼んでいるものと、ほとんど何も変わらない要素によって構成されている上演でもあった、ということに気がつく。
 舞台上にはトンネルのようなアーチが「舞台美術」として設えられ、そこに一人の「俳優」が現れると、彼の口から何かしらの「言葉」が「発話」され、その彼に「照明」が当たって、時たまスピーカーから「音響」効果としての小さな音が聞こえてくる、というのが、この作品全体を説明するためのひとつの方法ではあるのだが、こうやって『夢と錯乱』を語れば、この作品には、舞台美術、俳優、台詞、照明、音響、などといったものが揃っていて、ごく単純な意味でいえば、この作品は、けっこう普通である。


 ただ、演劇として上演するために必要となる、最低限の諸要素がたしかに揃っていたとしても、観客がその意味を、「わかる、理解する」ための手続きが取られなければ、よくわからない、で終わってしまう。
 そして、この演出家は、その手続きを最初から放棄していたのではないだろうか。なにせ、舞台美術と言っても、それは白いトンネルのような壁と屋根があるだけであり、いわゆるリアリズムの芝居のように、ちゃぶ台やタンスやクローゼットや寝台などといった、具体的で説明的なオブジェが置かれているわけでもない。舞台には、その壁と屋根があるだけで、それがいったい、「何」を意味しようとしているのかといった、「わかる」ための最小限の説明すらないまま、抽象的というか暗喩的というか、具体的な「コレ」ではなく、漠然とした「アレ」として、何かのイメージが仄めかされているだけである。
 音響も、地鳴りというか隙間風というか、そのどちらでもないような音が聞こえてくるだけだし、照明は、ほとんどその変化の過程が知覚出来ず、気がついたらわずかに変化していた、と事後的に気がつくような、奥ゆかしい変化がほとんどだった。
 そして俳優も、自分が何者でどのような役で名前は何で、といったような、いわゆる「虚構契約」と呼ばれるであろう手続きもせず、それが誰で何を演じているのか誰も知らないのに、いきなり、その詩のような散文を口にする。


 つまり、それが明確な何かであると名指し得ないまま、その名指し得ないものを観たり聞いたりする、というのが、この作品の上演中に起きた出来事であると思う。舞台上に現れる人や、その状況それ自体は、たしかに、視覚としては、見えているけれど、しかしそれが、意味として、誰であり、何であるかがわからない。あるいは、虚ろに語られる暗喩だらけの散文も、声としては、聞こえてはいるのに、しかし何度も中断し、途切れた声が静かに響き、いつも語り損ない、何かを言いよどみ、そして口ごもり、やがて沈黙してしまうようなその語りによって、単語の連なりが単なる音へ解体されていく。
 舞台美術も、観客が普段の生活でよく知る「何か」ではないし、音響また漠然とした曖昧な音が鳴っているだけで、照明は、それが変化したことはわかるけど、しかし、どのように変わっているのかが、いつも見逃されてしまう。目を瞑ったり、耳を塞いだりしなくても、それは曖昧にしか見えず、曖昧にしか聞こえない。


 この作品では、はっきりと名指すことの出来ないものが目の前でいま見えている、とか、意味を持った言葉が連続する中断によって解体されながら語られる、などといった、見えるけど見えない、聞こるけど聞こえない、という、矛盾した「ありえないこと」の実演が、行われていたのではないか。たしかに、観客席では誰もがそれを見て、その声や音を聞いたはずである。しかし、その劇場で上演された景色を思い出してみれば、視覚では見えていたはずの風景は、しかし何かの意味としては見えていなかったし、見えていたはずの人物は、誰であるのかもわからない。また、聴覚として聞こえている音も、しかし曖昧で名指しがたく切れ目のない音で、語る声も聞いていたのに、言葉や文章の意味は切れ切れで聞き取り難い。つまり、それらの視覚や聴覚は、「見えづらさ」や「聞こえづらさ」によって、そこに「ある」ものが名指せ「ない」という矛盾した状態を維持していたのだと言える。そして、そんな矛盾を表す言葉として、「表象不可能性」という一語は、たしかにそれらしく聞こえてくるものだろう。
 それに、クロード・レジ自身もまた、《到達できない境地に到達したい》という、そもそも矛盾した欲望を、たしかに語っていたのだ。つまり、重さのないものを持ちたいとか、透明なものの色を見たいなどという矛盾した欲望として、行くことの出来ない場所へ、行きたい、という、そもそもから実現不可能な欲望を、レジは語り、そして、それを求めていたわけである。
 そんな「ありえないこと」への挑戦は、この作品において、見えるけど見えない、聞こえるけど聞こえない、そんな「ある」のに「ない」という矛盾によって、たしかに実現されてはいただろう。

 


 ここからはただの余談だが、ところで、「ホロコースト」という、どのように「語っても」、いつも何かを「語り損なう」、そんな矛盾を作り出してしまう出来事を題材に、クロード・レジは演劇作品をかつて上演しているのだが、その『ホロコースト』という作品について、渡邊守章氏はインタビューの中で、大量虐殺の記録にまつわる言葉によって上演されたその作品における俳優の発話を、《我々日本人にはピンと来ない主題》であるし、《口で言うのは簡単だけど》という前置きをしながら、《ホロコーストを体験した人たちに代わって感じる》のではなく、《それを語ること自体が、すでにすごい拷問になる》ような作品であったと語っていた。


 しかし、わたしたちは、津波によって流される家や、水の中から火が上がる風景、どこまでも瓦礫が続く街並みですらなくなった街並み、などといった、東日本大震災の映像が映されるテレビの前でそんな「ありえないこと」が「ある」という理解不能な光景を、目の当たりにしたわけである。そして、そんなテレビの映像を見ながら、語るべき言葉を見つけられずに口ごもることの気まずさや、それでも何かを語ろうとして自分の言葉があまりに空疎であることに、「拷問」とまではいわないにしても、それなりに傷ついてしまうことに気だるい気分を味わったことや、「つながろう」とか、「がんばろう」とか、「みんながひとつ」などといった明るい言葉に白々しさを感じつつ、ほんとかよ、と言いたくなりながらも、人前では口をつぐんでしまう、そんな気まずさや気だるさを、確かに感じていたはずである。
 ただ、わたしたちがその出来事を「忘れない」と決意し、忘れないための呪文として、さんてんいちいち、という呼び方でその日付をいつでも思い出せるようにしながら、しかし、さんてんいちいち、という呼び名がまだ出来上がっていなかった震災初期に、テレビのコメンテーターや文学者や演劇作家が、その震災という「ありえないこと」を、「明晰」な言葉で「聡明」に語っていたことについて、気まずさや気だるさを感じていたことだけは、すっかり「忘れて」しまったからこそ、眼の前で起きる「ありえないこと」について、互いに理解しあえる言葉で、頷きあってしまうのである。


 さて、《人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか?》と浅田彰はそう書いていたが、《沈黙と遅延》に関心を寄せるクロード・レジの作品は、まさしくこの、《沈黙の深淵》という言葉がぴったりではないだろうか。客席を出ると春秋座のロビーがあまりに明るく、自分がいかに暗い場所にいたのかを改めて思い出すのだが、その暗さはいかにも、深淵、という感じだった。もちろんそれは、背後ではなく、観客席の眼の前にさし迫っていたのだけれど。
 そして人は、《沈黙の深淵》を忘れるために、語るらしいのだ。だからこそ、劇場という、本来であれば流暢な雄弁さが煌めくはずの場所において、にもかかわらず、言葉が何度も中断し、途切れた声が静かに響き、いつも語り損ない、何かを言いよどみ、そして口ごもり、やがて沈黙してしまう、そんなたどたどしく虚ろな声を、しかし劇場という場所の中で肯定してしまうクロード・レジの「過激さ」を忘れたり、そこに見えているものが、しかし見えない、という「表象不可能性」を目指す「過激さ」から視線をそらせながら、目の前の「暗さ」ではなく、その「暗さ」に、隠されているはずの、意味ばかりを見つめようとするのである。
 《そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるため》に、人は《かくも熱心に言葉をとり交し合って止まない》のだと蓮實重彦は書いている。きっと、《見えない木/見えない鳥/見えない小動物/ぼくは/見えないリズムのことばかり考える》ように「隠された意味」という「見えないもの」について語ってしまうのも、それが「ある」のに名指せ「ない」という、意味の生起がくすぶり続けるその舞台上に見えている、その「くすぶり」から視線をそらし、見えないものを見ていたからだろう。
 さて、「意識」や「夜の鼓動」や「演出上の意図による字幕のズレ」を、わたしたちは本当に、見たり聞いたりしたのだろうか?

 

 

 なので最後に、ナンシー関の言葉を引用して、さすがにそろそろ終わろうと思う。
 原則を無視した「ありえないこと」が起きたときに、人がその出来事をどのように処理するのか。ナンシーは、「モーニング娘。」を卒業した中澤裕子がテレビに出続けているという、そんな「難解」な「問い」に対し、視聴者が行った「解釈」についてこう分析する。
《役割のないものは存在しないというのが原則であるが、現実的にその原則から外れたものを前にした時、人は排除するよりも解釈する方法を探すものらしい。で、この場合元モー娘。として処理する》。
 よくわからないものを見ると、人はそれを解釈し、さしあたり手頃な意味を見出すのである。そうしておけば、目の前の「謎」について、深く考える必要もなく、とりあえず「処理」はできるのだ。しかし、観客席から見えたり聞こえたりしていたのは、「解釈」によって導かれる「隠された意味」などではなく、その手前でくすぶっている「見えづらさ」や「聞こえづらさ」だけである。「実は」などという醍醐味は、週刊誌的な「噂の眞相」を楽しむくらいのことでしかない。どうでもいいが、ナンシーは自身の態度を「顔面至上主義」というコラムタイトルでも表明していたが、これはやはり、「表層批評宣言」のパロディなのだろうか。本当にどうでもいいが。


 解釈とは、言葉は悪いが、結局それをどう「処理」するかということである。そして、中澤裕子に対し、たとえば「モー娘。初代の優れたリーダー」という、言葉で練り上げた「隠された意味」を殊更に読み取ったとして、それはある文脈では正しいかもしれないが、その文脈で語られるそれは淡い憧憬と無闇な賛美であり、そんな解釈で処理しても、オタクが互いに目配せしながら、やっぱり、良いよね、うん、良いよ、と微笑みを交わし頷き合うだけである。別に、それが悪いとは言わないが、しかし、わたしたちが生きる現代の演劇だって、別の形で、誠実で切実ではあるのだから、レジを殊更に崇めながらその作品を肯定し、中澤裕子を褒めることで頷きあっても、「いま」の何かがわかったり、「いま」の何かが変わったりするわけでもない。


 そういえば、アイドルというのはやがて、そのグループを「卒業」するわけだが、卒業する人は笑顔で見送り、あの先輩うざかったなあ、と後になって笑うのが、ガキの自然な振る舞いである。先輩というのは、口うるさくて鬱陶しいと相場が決まっていているのだから、いなくなったら寂しいけれど、いたら色々と面倒も多い。もちろん、先輩にうざいなんて言ったら、取り巻きに蹴られたりしてしまうので、上っ面ではニコニコしていたほうが良いに決まってはいるのだが。
 そう考えるとクロード・レジは、なかなか迫力ある先輩だった。勉強の出来る不良、という感じで、芸術監督という制度に対しては生涯をかけて反抗しつつ、上演中に客が席を立ったり「演劇ではない」と劇評に書かれても、「よい兆候だ」などと言うのだから、結構野蛮である。とはいえ彼には、マルグリット・デュラスやヨン・フォッセなどの難解な戯曲をことごとく上演してきた頭の良さもあり、それがまた別の迫力を感じさせたりもするから厄介だ。そういえば、ヤンキーというのは群れるのが好きだが、レジは《類を見ないとしか言いようのない》とのことなので、群れようにも、そもそも同じ群れがいない。まさしく孤高の先輩である。しかし今回は最後の作品。そんな先輩も、いよいよ卒業である。


 アイドル全盛期を駆け抜けた(らしい)キャンディーズのラストシングルは、『微笑み返し』という曲で、歌詞中に「春一番」「わな」「アン・ドゥ・トロワ」といった過去のシングルタイトルが盛り込まれていたり、踊りの部分では「ハートのエースが出てこない」「年下の男の子」「やさしい悪魔」等の振り付けが使われているらしい。
 そんな『微笑み返し』について、どうして昭和63年生まれの筆者が知っているかというと、斎藤美奈子村上春樹の『海辺のカフカ』について、自己模倣をしながら読者へサービスした小説だったと書いているのを読んだからである。
 クロード・レジの卒業公演は、そんな観客への『微笑み返し』になってはいなかっただろうか。もちろんその判定は、レジの仕事をこれまで沢山見てきた批評家でなければ語れないのでここでは何も言えないが、少なくとも、レジの作品を見たというかレジの信念を見たという気分は十分に味わえた今作に、しかしそれ以上の驚きや慄きのようなものを筆者はあまり感じていない。というのも、「過激」さは日々更新され、さらに多くの「過激」な作品は、いまも切実に作られている。出演者なしの無人の劇でかつて戦争に加担した岸田國士による二つの作品と大政翼賛会のテキストを扱いながら無人の舞台上で鳴り続けている電話をとれという観客への指示で観客の動作を操りながら意味のわからない命令にしかし従う人間の姿を再現した「過激」な作品のことも、俳優ではない中国人と日本人が一言一句変わらぬ対話を何度も何度も繰り返すことで対話の中で語られていた僅かな差別や気だるい苛立ちが可視化されつつ途中で一人の在留中国人が幼い頃の差別体験を観客に向けて赤裸々に語る「過激」な作品のことも、極端な女性語的語尾を繰り返す日本語によって日本以外の国の言葉から翻訳した戯曲であるような印象を与えながら恐ろしいことが起きると噂されている自分たちの住んでる場所がすでに滅んでしまった日本という国と同じことになるのではないかという不安を語りつつその最後には一人の女が「わたしたち」はすべて亡びたと言い一人の女「わたしたち」はみんな助かったと言いその顛末が未決定なまま出演者の女たちが客席の「わたしたち」を見つめその視線で震災後を生きる観客を挑発する「過激」な作品のことも、震災について饒舌に語るオーストリアの作家の言葉がさらに饒舌な言いよどみとして翻訳された日本語で半ば胸ぐらを掴むように「観客に語れ。関われ。無理にでも関われ」という演劇論から語られる俳優の声を観客席で聞き続けながらしかし同時にそれがまるで観客に対しこの作品に書かれている大きな悲劇と悲劇を語るその怒りに似た饒舌と口ごもりの矛盾に観客である「あなたたち」もまた「わたしたち」のように「無理にでも関われ」と言うかのように「あなた」と言いながら「自分」を指差し「わたし」と言いながら「相手」を指さす言葉と出来事の矛盾した混乱を続けながらふいに出演者の全員観客席を指さしてくるあの東日本大震災後の「過激」な作品のことも、忘れてはいない「わたしたち」や「あなたたち」が、トラークルという詩人の散文を口ごもりながら読むという「過激さ」を、詩的な言葉に寄り添いながら真に受け賛美することは、何に対しての誠実さや切実さがあるのだろうか。
 「美食家」のごとくその味わいを詩的な言葉で表現しても、高級料理が好きなプチブルが舌鼓を打つだけである。相手に太鼓を持たれるというのは、踊らされてるという意味だ。もちろん、皮肉である。

 

(2018年5月5日6日、京都芸術劇場 春秋座 特設客席で観劇)

 

 

〔引用・参考文献等〕

京都芸術劇場春秋座 studio21 WEBサイト/『REAL KYOTO』インタビュー「渡邊守章「クロード・レジについて」」・真部優子「Review クロード・レジ『夢と錯乱』」/『artscape』高嶋慈「artscapeレビュー クロード・レジ演出『夢と錯乱』」/ふじのくに⇔せかい演劇祭2018 劇評コンクール「夢幻の彼方に喘ぐ、無限の彼方に呻く ―クロード・レジ演出『夢と錯乱』における〈夜〉の生」/斎藤美奈子『文壇アイドル論』より− 鈴村和成『村上春樹クロニクル1983-1955』・川本三郎『都市の受容性』・久居つばき&くわ正人『象が平原に還った日』/斎藤美奈子『趣味は読書』/浅田彰『構造と力』/蓮實重彦『物語批判序説』『凡庸な芸術家の肖像』/西谷修『夜の鼓動にふれる――戦争論講義』/筋肉少女帯「サーチライト」/田村隆一『言葉のない世界』/ナンシー関「顔面至上主義」/横山義志『舞台芸術』5号収録「可能性の現前―ークロード・レジとヨン・フォッセ」/キャンディーズ「微笑み返し」/三浦基『おもしろければOKか?―現代演劇考』 ほか

 

 

 

〔作品クレジット〕

『夢と錯乱 Rêve et Folie』
日時:2018年5月5日・6日 場所:京都芸術劇場 春秋座 特設客席

演出:クロード・レジ 出演:ヤン・ブードー 演出助手:アレクサンドル・バリー 舞台美術:サラディン・カティール 音響:フィリップ・カキア 照明:アレクサンドル・バリー 初演:ナンテール=アマンディエ劇場、2016年9月15日

 

*1:9月5日追記 この部分については、朴建雄さんより、字幕のズレが意図的な演出であったことについての、確証をもった指摘を頂きました。よって、高嶋氏の議論が正当なものであったこということをこちらで補足いたします

プロフィール

 

 

森山直人(もりやま・なおと)
1968年東京生まれ。演劇批評家。京都造形芸術大学舞台芸術学科教授。同大学舞台芸術研究センター主任研究員、及び機関誌『舞台芸術編集委員。KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長。京都芸術センター運営委員。放送大学科目「舞台芸術の魅力」(全15章)のうち3章を担当中。著書に、『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会、2017年)等。主な論文に、「演劇という「画面」」(『舞台芸術』21号)、「〈オープン・ラボラトリー〉構想」(『舞台芸術』20号)、「沈黙劇とその対部――あるフィクションの起源をめぐって」(『舞台芸術』13号)、「〈ドキュメンタリー〉が切り開く〈舞台〉」(『舞台芸術』9号)等多数。

 

 

長澤慶太(ながさわ・けいた)
1988年生まれ。新潟市立高志高等学校卒。2014年9月より京都の小劇場 アトリエ劇研の制作室として、劇場運営、劇場主催事業に関わるほか、あごうさとし、akakilikeなどの公演に制作として参加。また、村川拓也の公演制作ならびに演出補助なども務める。2017年5月より京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター研究補助職員として国内外の演劇祭の視察、ドキュメンタリー演劇研究などを行う。

 

 

新里直之(にいさと・なおゆき)

千葉県生まれ、京都府在住。演劇研究・演劇批評。近畿大学大学院総合文化研究科修士課程修了。京都造形芸術大学大学院芸術研究科博士課程在籍。ロームシアター京都リサーチプログラム「舞台芸術アーカイブ」リサーチャー(2019年度)。執筆記事に「身体と言葉の創造的行為を巡って―インド/京都による国際共同研究」(京都造形芸術大学舞台芸術研究センターウェブサイト、2019年4月)、「問いかけを結ぶ環―研究プロジェクト「太田省吾を〈読む〉-未来の上演のために」」(『舞台芸術』21号、KADOKAWA、2018年3月)など。  

 

はじめに

はじめに

 

長澤慶太さん、新里直之さんと、3人で劇評を発表するこのサイトを立ち上げることになりました。

 

少なくとも当面は、それぞれが、それぞれの見ることのできた作品について、自由に、できるだけ率直に書くことだけを目標に進めていきたいと思います。

(サイトのデザインも、サイト名も、ごくシンプルなものにしたのは、そのためです。)

また、時々は、個々の劇評を離れた少し広めのテーマについて書くこともあるかもしれませんが、その時は別のタグを作って、読みやすい形で発表したいと思います。

 

このサイトは、上記3名が、それぞれの書いたものに、それぞれが責任をもつ、という形で運営されていく場所です。場合によっては、同じトピックをめぐって、異なる見解が生まれるかもしれませんが、それを発表前にあらかじめ調整したりするようなことはありません。

 

「批評とは何か」「いま、なぜ批評なのか」――こうしたテーマが重要なのは当然ですが、それぞれが、こうした問題をどのように考えているのかは、これから書かれていく劇評のなかで具体的に見えてくると思いますので、書く前からいろいろ宣言したりするようなことは、ここではあえてやめておきます。

 

読んでくださった方々からのコメントを受け取る機能は設けませんが、お感じになったことがあれば、たとえば直接お会いできた時などにでも、お気軽にお寄せいただければ幸いです。

 

それでは、どうぞ宜しくお願いいたします。

 

2018年8月24日

 

森山 直人